このパンがすごい!

「いち」から手づくりする「あん」しんの店/いちあん

  • 文・写真 池田浩明
  • 2017年9月12日

■いちあん(埼玉県)

 いちあん=市(「いち」)川忍シェフの「あん」こという意味。それだけに、看板となっているあんぱんはさすが、すばらしく印象深いものだった。

 十勝あずきこしあんぱんの自家製あんこ。ワイルドなほどに豆の味がして、なのにしゅーっと溶け、甘さが引いたあとでもなお、喉(のど)のあたりで幸福な感覚が持続している。濃厚さと口溶けよさがこんなにも拮抗(きっこう)するあんこは稀(まれ)だ。

 つぶあんが自家製という店は最近増えてきたが、漉(こ)す手間がかかるこしあん、白あんまで手づくりする店は滅多にお目にかからない。ラムレーズンあんぱんの白あんはぜんぜん嫌みがなくて、甘さが喉をつっかえずすっと滑り落ちる。ラムの風味を白あんがよく吸い込んで一糸乱れぬマリアージュを繰り広げる。

 手づくりするあんこはもっともっとある。地元の狭山茶を混ぜた狭山茶あん、かぼちゃあん、所沢の農家・安藤さんの紫いもを使う紫いもあん…。

 いちあんで、こしあんぱんにするか、あんバターにするかは究極の選択だ。私は熟考した末に、両方買った。あんバターって、あんことバターをはさんだだけでしょ、と思ったら、ここにも手間が。バターとアングレーズソース(カスタードに似たソース)を混ぜたバタークリームで意表を突く。噛(か)むたびにあんことミルキーさ、バニラの風味がからんで、どんどんまろやかに不思議になっていく。

あんバター

 パン屋をはじめる前、老舗の和菓子屋に勤めていた経験を活(い)かし、市川シェフは手間を惜しまずあんこを作る。いや、自家製にこだわるのはそれだけではない。市販のパン酵母(いわゆるイースト)は一切使わず、すべて手づくりの発酵種。レーズンから酵母を起こし、小麦と水を継ぎ足して…パンにするまで1週間。自家培養は発酵も不安定だ。なのに、あんぱんはどれも満月のようにまんまる。さっくりとしているけれど、手折りの布のように風合いがあたたかく、質感があって、酸味もなく、味わい深い生地なのだ。

 たとえば、リュスティックは、実に軽やか。ぷにゅっとした食感から、なめらかにとろけ、白い小麦のジュースが湧きでる。オリーブのリュスティックなら、混ぜ込まれたオリーブの酸味が唾液(だえき)の分泌をうながし、ますます口溶けをすばやくする。

ノアレザン

 やや重めのカンパーニュでさえ、ぷにゅっとふわっとして歯をバウンドさせたのち、ちぎれながらさわさわ包み込む。

 レーズンとくるみが入ったノアレザン。全粒粉が味わい深くしゅるっととろけたあと、ぶどうジュースがぶしゅっと弾け、オーガニックのくるみが実に香ばしく唱和する。

 胚芽(はいが)食パンは、創業当時から人気のパン。胚芽の香りの心地よさ。ハイジみたいに、あたたかな寝藁(ねわら)に包まれる感覚。このパンにも、発酵種のベストの状態を見極めたときに訪れるぷにゅっと感やとろけの快楽がやはりある。

 手づくりなのはあんこや発酵種だけではない。サンドイッチのきんぴらごぼうに、マヨネーズに生ハム。ランチセットのスモークチキン、スープ、白いんげんのペースト。ドリンクのジンジャーエール、さまざまな自家製ジャム…。あれもこれもなんでも自家製。手で引いた線とコンピューターで引く線がちがうみたいに、どの具材からも素材の微妙なゆらぎが感じられる。

 市川さんにはパン屋で勤めた経験がない。試行錯誤で製法を見いだした。はじめは店舗もなく、リヤカーを引いて、路上や公園でパンを売った。こつこつと、人生も手づくりした。

 なぜこんなに手をかけるのか。市川シェフが大事にするのは「からだ よろこぶ たべもの つくる」というポリシー。卵は岐阜産、低温殺菌牛乳は兵庫県産。パンの仕込みに使う水まで、滋賀県の岩深水(いわしみず)を使用。生産者に会いにいって、どんな人がどんなふうに作るか確かめて素材を選ぶ。

「お母さんが、家族や大事な人に、『おいしい』って言ってもらうために心をこめて手づくりするのと同じように作りたい。それを目指すほど手間がかかります」

 いちあんの意味は、こんなふうにも読める。なんでも「いち」から手づくりする「あん」しんの店、と。

市川忍シェフ

外観

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■いちあん
埼玉県所沢市旭町27-23
04-2941-6862
10:00~18:00
ランチは、11:30~14:00まで
水曜休み
http://www.ichian.co.jp/

>>「このパンがすごい!」でご紹介した店舗マップはこちら店舗マップはこちら

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PROFILE

池田浩明(いけだ・ひろあき)ライター

池田浩明

佐賀県出身。ライター、パンの研究所「パンラボ」主宰
日本中のパンを食べまくり、パンについて書きまくるブレッドギーク(パンおたく)。編著書に『パン欲』(世界文化社)、『サッカロマイセスセレビシエ』『パンの雑誌』『食パンをもっとおいしくする99の魔法』(ガイドワークス)、『人生で一度は食べたいサンドイッチ』(PHP研究所)など。国産小麦のおいしさを伝える「新麦コレクション」でも活動中。最新刊は『パンラボ&comics 漫画で巡るパンとテロワールな世界』(ガイドワークス)

BOOK

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