MUSIC TALK

バンドマンが映像の世界に踏み出すまで 銀杏BOYZ 峯田和伸(前編)

  • 2017年10月6日

撮影/松嶋 愛

 インディーズシーンで圧倒的な存在感を放ったバンド「ゴーイング・ステディ」、そして、銀杏BOYZ。強烈なボーカルとパフォーマンスを見せてきた峯田和伸さんが、バンド結成から解散、映像の世界に一歩を踏み出すことになったてんまつを語る。(文・中津海麻子)

    ◇

――幼いころの音楽の思い出は?

 父親も祖父も音楽が好きで、家の中にはいつもビートルズやグループサウンズの曲が鳴っていました。父は中3のときにビートルズの来日武道館ライブをテレビで見て感激し、高校に入ってから友だちとバンドを組んでGSみたいな音楽をやっていたらしいです。家でカラオケしたり、歌うことは家族みんな大好きでした。

――自分で積極的に音楽を聴くようになったのは? どんな音楽が好きでしたか?

 山形の実家が電器屋で、僕が小学校5年か6年のころにCDとビデオのレンタルを始め、陳列の手伝いをしていました。で、僕はタダで借りられるんです。でも多すぎると怒られるので、1枚2枚こそっと借りてはダビングして(笑)。その店でバイトをしていた中学生が、好きな曲を編集したカセットテープをくれたりもして、周りの同級生に比べたら音楽には詳しかったと思います。ブルーハーツやユニコーン、洋楽はマイケル・ジャクソンからニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックのようなアイドルまで、当時はやっていた音楽はあれこれ聴いていました。

電器屋を継がなければならなかったのに

――音楽を始めたのは?

 大学進学で上京してからです。中高生時代はやりたいとは思わなかった。音楽は好きだったけど、人前で何かやるということにあまり魅力を感じなかったんです。

 僕は長男なので、大学を卒業したら田舎に戻り電器屋を継ぐという条件で親に学費を出してもらっていました。4年後には山形に帰るんだから、それまでは好きなことをやってみようと、初めて自分で曲を書きました。演奏して歌いたいけど、楽器ができる人が周りにいなくて。そこで、高校時代から一緒の友だちに「楽器やってくんない?」と頼み込み、結成したバンドが「ゴーイング・ステディ」です。最初からオリジナルの曲しかやりませんでした。みんな初心者で、コピーする能力がなかったから(笑)。

 デモテープを作り、ほかのバンドのライブに行ったとき帰りに出待ちして「これ聴いてください」と軽いノリで渡して。それを聴いたレーベルの人から電話がかかってきて「CD出さない?」と。結成してまだ1年ぐらいしか経ってないし下手だし、なのにそんな僕らを「おもしろい」と言ってくれた。すっかり気が大きくなって勘違いして、そのノリでデビューしちゃった。大学3年のときでした。

――家業を継ぐことが決まっていたのにデビューした。どんな思いだったのですか?

 4年経ったら田舎に帰らなきゃいけないというリミットが自分の中にあったので、がむしゃらにやってました。周りには趣味でやってるバンドも少なくなかったけど、僕らはライブでも「今日が最後だ」ぐらいの切羽詰まった気持ちだった。その本気度がうまい具合にまわり始めたのか、アルバムを出して全国ツアーにも行くことになり、ちょっと責任感みたいなものが芽生えるようになったんです。お客さんに「また来てくださいね」「がんばって」なんて言ってもらって、俺、この道で行ってもいいのかなと思うようになった。親には内緒でやっていたので、卒業を前に田舎に帰り、全部打ち明けて頭を下げました。

――反応は?

 めっちゃ怒られると思ったのに、父が静かすぎたのが逆に怖くて(笑)。「あと3年やらせてください。CDが100万枚売れなかったら帰ってきます」と。納得はしてなかったみたいだけど、なんとか切り抜けました。結局100万枚は売れなかったんだけど、惜しいところまではいったんです。「あんたの息子、東京でバンドやってるね」なんて周りから噂が入って来ていたみたいで、父も自然と応援してくれるように。ただ、「どうせやるならとことんやれ。音楽がダメだったから帰るなんて中途半端なことは許さねえぞ」と、きつく言われました。

 家業は弟が継いでくれました。弟にもやりたいことはあっただろうに、兄ちゃんがこんなだったから自分の夢はあきらめたんだと思う。今でも頭が上がりません。実は去年、弟のところに男の子が生まれて。峯田家の初孫、すぐ会いに行きました。僕、それまで携帯の待受はストーン・ローゼズだったんだけど、今はおいっ子に。ただの「おじバカ」です(笑)。

ゴーイング・ステディの解散

――ゴーイング・ステディはインディーズシーンで大ブレイク。「青春パンクバンド」として人気を博しました。楽曲へのこだわりは?

 ロックの人が書きそうなラブソングは書かない。それは最初から決めていました。かっこいいファッションで決めて、楽屋に女の子がいっぱいいて、「今日はよく集まってくれたね」「きゃー!」みたいな(笑)。そういうロッカーにはならないし、そういうロッカーが書く型の音楽はやらない。もっと普通の、その辺を歩いている人がギターを持って歌うだけ、みたいな。取り繕ったりせず、無理をしない、普段着の音楽をやりたいと思ってた。それは今も変わりません。

 ただ、これも今もそうなんだけど、「自分が書いた曲が最高だ」と凝り固まっちゃうといいものが出なくなる。有頂天になっている自分をボコボコにしてくれるような刺激を、音楽以外の表現をしている人からもらうようにしています。あ、人だけじゃないな。上野動物園のカバも。あのカバを見てると頑張ろうって思う。最近なかなか行けてないんです。赤ちゃんパンダにも早く会いたいですね(笑)。

――人気絶頂の中、2003年、ゴーイング・ステディは解散します。なぜ?

 6年ぐらいやったんだけど、その間、ちゃんと音楽的なことをしてなかった。っていうと変な話だけど。自分たちが表現したいことがまずあって、それを見せる手段として音楽をやってるという感じだったんです。いい曲書いていいライブしてというのはもちろんあるものの、「何かしでかしてやりたい」の方が強かった。でもそれって続かない。体力も気力も。

 それに、メンバー全員が同じことを体験したとしても、同じ景色を見られるわけじゃない。僕には見えている景色が、他のメンバーには見えてなかったりする。その差が6年の間にだんだん開いていった。それで、もうこのバンドは無理だと思ったのかもしれません。

田口トモロヲから、役者の仕事のオファーを受けて

――その年、田口トモロヲ監督の映画「アイデン&ティティ」で主演。役者の仕事に挑戦しました。経緯は?

 バンドを解散することになったとき、実は全国ツアーが決まっていたんです。事務所やレコード会社からは「とりあえずツアーはやって、最終日に解散を発表すればいいじゃないか?」と言われたんだけど、ツアーなんてできる気分でも状態でもなかった。「やってらんねぇ!」とテーブルの上の電話を投げつけて、僕は事務所を出て行きました。それで解散。ツアーも全部キャンセルになった。

 そしたらレコード会社と事務所にクレーム電話の嵐。「ふざけんな!」とか、中には「殺すぞ」なんて物騒なのもあって、僕は家から一歩も出られなくなったんです。そんな中、マネージャーから「映画の話があるんですけど」と。びっくりして、ドッキリか!? って(笑)。ふざけた人もいるもんだと思いましたが、それが田口トモロヲさんからのオファーでした。

 バンドマンが主人公の映画を作るのに、実際にバンドをやっているミュージシャンを探している、と。それで僕のことを見つけてくれたらしくて。僕はといえば、解散してツアーもなくなったからスケジュールがまるごと空いていた。みうらじゅんさんの原作も大好きだったし、「これ、やれ」ってことだと思っちゃったんです。その3日後ぐらいにトモロヲさんにお会いして、「僕やります」って即答していました。

――初めての映画、初めての演技。いかがでしたか?

 僕の力だけでは多分無理でしたね。トモロヲさんは音楽もやってらっしゃるから、僕の気持ちをわかってくれたし、相手役の麻生久美子さんがずっと僕の味方でいてくれたことが大きかった。彼女じゃなかったらくじけて演技になってなかったと思います。本当にみんな優しかった。周りの人たちに恵まれました。あの作品がうまくいってなかったら、役者の仕事はきっと二度とやらなかった。

(後編へ続く)

    ◇

峯田和伸(みねた・かずのぶ)

1977年生まれ、山形県出身。1996年、「ゴーイング・ステディ」を結成、2003年に解散。同年、ゴーイング・ステディのメンバーだった安孫子真哉(ベース)と村井守(ドラム)、新メンバーにチン中村(ギター)を迎え、「銀杏BOYZ」を結成。2013年11月、安孫子真哉、チン中村が脱退。同年12月、村井守が脱退。現在はサポートメンバーを交えて活動している。
2017年までにオリジナルアルバム3枚とライブリミックスアルバム1枚を発表。10月13日にバンド初の日本武道館公演となる「日本の銀杏好きの集まり」を開催。それにむけて7月から3カ月連続でシングルを発表した。
バンド活動の傍ら、映画や舞台に出演するなど活動の幅を広げ、NHK朝の連続テレビ小説「ひよっこ」でヒロインの叔父、小祝宗男役で出演。

銀杏BOYZ公式サイト:http://www.hatsukoi.biz/

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