東京の台所

<160>休職友だちが手に入れた、小さくとも快適な家

  • 文・写真 大平一枝
  • 2018年1月10日

〈住人プロフィール〉
編集者・40歳(男性)
賃貸一軒家・2DK・東武スカイツリーライン線 東向島駅(墨田区)
築年数約40年・入居7カ月・妻(ウェブデザイナー/29歳)との2人暮らし

    ◇

 アルミサッシの引き戸を開けると、いきなり白いタイルと壁に囲まれた明るい台所がある。玄関を入ってすぐ、たたきの左側には、食器棚。オープン収納の靴棚の横には、調理器具を収納したワゴンと、乾物を収納している椅子兼ストッカーが。
 その台所の奥に寝室がある。墨田区の古家はこの間取りが多いらしい。
 1階に1室。2階は仕事部屋が1室。

 築約40年の古民家はフルリノベーションされた状態で、賃貸物件として出ていた。ネットでいち早くそれを見つけた彼は、物件を見学。白と青の遊び心あふれるタイルの内装が施された台所や、一軒家でありながら格安な家賃にひかれ即決。かくして結婚2カ月の夫婦の新居は決まった。
 小さいけれど、楽しい我が家。そんな形容がぴったりな空間で、彼女の淹(い)れたお茶を飲みながら、彼は意外な言葉をつぶやいた。

 「じつは僕たち、休職友だちなんです」
 元同僚の妻と、付き合いだしたきっかけは、会社生活が合わず、うつと適応障害で休職した体験を語り合ったことから──。
 私は思わず「休職ですか?」と、聞き直した。にこにこと穏やかな表情の彼と、目がくりくり動くかわいらしい11歳下の彼女がかもし出す新婚ならではの仲むつまじい空気と、その言葉がまったくなじまなかったからだ。

料理は実験感覚で

 「IT系企業で僕は編集者として、彼女はデザイナーとして勤務していました。体調が良くなくて休職していた時期は彼女とずれているんですが、『元気?』なんて僕からメッセージして、次第に親しくなりました」

 復帰後、彼は転職先で新規事業に参加。現在は別会社を作り、自宅で記事を執筆、発信している。週に1度の会議はハングアウトでこなし、出社の必要がない在宅ワーカーだ。
 彼女は悩んだ末に退職し、フリーのデザイナーに。独立と結婚が同時だった。

 冷蔵庫からは、作り置きのそぼろやピクルスや赤カブの酢漬けが次々出てくる。料理は彼女の担当。両親が共働きだったので、幼い頃からやっていて苦ではない。「食材やレシピにこだわるというより、料理は実験感覚で、あれこれくふうして試すのが昔から好きなんです」と語る。

 彼女の料理好きを、彼は一緒に暮らすようになってから初めて知った。
 「意外でした。うまみ調味料も使いませんし、外食をしても“これは作れるかも”ってすぐ探求を始める。一度、家で僕がスナック菓子のカラムーチョを食べていたら“それ、作れるんじゃない?”って彼女が言ったときは、驚きましたね。で、ホントに作っちゃいましたから。味? ものすごくおいしくて、カラムーチョ以上にカラムーチョでした」

 細切りして揚げたポテトに、チリパウダー、寿司ご飯に使う粉末の「すしのこ」、コショウ、ハバネロをまぶしたらしい。彼女は楽しそうに解説をする。
 「辛い中にちょっと甘酸っぱさがありますよね。あれ、寿司の子でできるんじゃないかなって思いついたんです」

 なるほど、まさに実験感覚。
 台所の隅にキャンプ用の折りたたみ椅子を置き、レシピ本を読んだり、コトコト煮込み料理をしたり、iPadを見たりするのが好きだという。仕事の気分転換になるから、と。

働き方を変えた先にあったもの

 結婚して、もう一つ発見したことが彼にはある。
 「彼女は本当に朝、起きられないんです。昼まで寝ているので、同じ在宅でも、早朝仕事型の僕とは机に向かう時間がずれています。狭い家なのでずっと一緒よりは、その方がお互いに楽。起きられない彼女を見て、ああ会社に勤めていた頃は、けっこう無理して頑張っていたんだなとわかりました。さぞつらかったろうなと。よく遅刻していましたから」
 その頃は、なぜ、朝会社に来られないのかわからなかった。だが、一緒に暮らすと、体質的に起きられないということがよくわかる。

 起きられない自分と戦いながら、定時に電車に乗る生活を続ける中で次第に心身の調子を崩していったこともよく理解できた。
 だが、今は違う。彼女は言う。
 「寝坊をして遅刻をし、誰かに迷惑をかけながら1日が始まったあの頃と、私は誰にも迷惑をかけていないと思って遅く起きる今と、気持ちが全然違います。心も体もずっと楽です」

 ふたりは、仕事も会社も仲間も嫌いではない。同じ時間に集合し、同じ席で、決められた時間まで座っていなければいけないという働き方が、性に合わないのだ。与えられた仕事を自分のペースで進めたい。もっといえば、自分の生きるペースで働きたい。
 結果が同じで、仕事に支障がなければ、その過程は多様な働き方があっていいはずだ。

 彼は、彼女のようすを見て初めて、世の中には本当に朝起きるのが辛い体質の人がいて、睡眠時間をずらすことで快適に最高のパフォーマンスを出せるケースがあると知った。

 彼のほうは、一つの場所に座り続け、同じ姿勢で仕事をするのが苦手だ。
 今は、朝6時半から昼まで、家で大きな仕事を済ませ、午後は珈琲店で書き物をしたり、歩きながらアイデアを練ったり、ショッピングセンターのフードコートでメールの返信をする。
 移動先でパソコンを広げ、仕事に集中するスタイルが自分にしっくりくる。
 彼もまた、この暮らしで、定時に都心の会社に通っていた頃のストレスから解放された。

 家賃の安さにひかれ、知り合いのいない墨田区の下町を選んだ当初、ふたりは少々身構えていた。が、次第に肩の力が抜けていった。
 「このへんのみなさんはみんなフルオープン。玄関も窓も開けっ放しで、うちみたいに玄関上がってすぐ台所とか、こたつとか居住空間のひろがる家が多いのですが、テレビ画面までありありと外から見える。なんだか大阪っぽくて、人の距離が近くていいなあと。先日も通りがかりのおばさんが、昔ここに知り合いが住んでいたのよと話しかけてきて、僕らが住む前のこの家の物語を知れてうれしかったです」

 台所の脇に小窓がある。寒気に覆われた1月のこの日も20センチほど開いている。
 「墨田区の先輩がたがみんな小窓を開けてるんでまねてます。換気扇代わりです」
 と、彼女は笑った。

 棚に、都心の会社に通っていたころのツーショット写真が飾られていた。とりわけフレームの中の彼女の顔色が暗い。そう告げると、彼女からこんな言葉が返ってきた。
 「この家に来てからずっと、今まで感じたことのない気持ちが続いています」
 それはどんな?
 「なんでもやれそうな気持ちです」

 よく見れば、台所の窓は一面にしかなく、壁や床が白いというだけで、さほど物質的な明るさはない。私が引き戸を開けたときに感じたあの明るさは、ふたりが生きづらい日々を経てやっと手に入れた、暮らしの喜びが発光していたからではあるまいか。

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PROFILE

大平一枝(おおだいら・かずえ)

写真

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『日曜日のアイデア帖~ちょっと昔の暮らしで楽しむ12か月』(ワニブックス)、『昭和ことば 辞典』『かみさま』(ポプラ社)ほか多数。HP「暮らしの柄」 ■レンズ協力:SIGMA ART|18-35mm F1.8 DC HSM、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO HSM

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