明日のわたしに還る

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INTERVIEW

清水ミチコさん「お笑いって共感が大切。ちょっと意地悪な気持ちを共有する」

  • タレント
  • Michiko Shimizu
  • 2018.4.24

 芸能界に一歩を踏み出したころ、周りにはまだ女性芸人がいなかった。人気番組に出演しながら出産し、育児をこなした。そして、お笑い芸人として武道館でのライブを成功させーー。芸人として、働く女性として、清水ミチコさんは時代を先駆けてきた。だが、テレビに映る姿からも、爆笑もののモノマネからも、気負いはまるで感じられない。ほどよくユルくて自然体。その秘訣は?

文 中津海麻子 / 写真 馬場磨貴

 幼いころからお笑いが大好きだった。

 週末のお楽しみは「8時だョ全員集合!」。加藤茶さんがストリッパーに扮して「ちょっとだけよ、あんたも好きねぇ」というギャグが子どもたちの間で大流行。学校では男子たちがマネしていた。でも、それを見た少女時代の清水さんは、「表情がイマイチ」と心の中でツッコんでいた。

 「加藤茶さんのあのギャグには、ストリッパーの挑発みたいなものがある。私だったらそこをもっとうまくマネできるのに。でも私がやったらみんな引くんだろうなぁ、女って損だなぁ。そう思ってました」

 高校を卒業し、短大に進学するため上京。清水さんに東京を目指させたのは、憧れの「あの人」だ。

 「高校時代、テレビですごいピアニストを見た。矢野顕子さんです。それまで、和音をきちんと弾いて曲を崩さずに歌うのが正解だと思っていたのですが、自分なりにアレンジして歌ってもいいんだと知った。衝撃でした。で、矢野さんと同じ空気を吸うために東京に行こう!と(笑)」

本気でふざけるには覚悟がいる、と気づかされた

 お笑いは好きだったが「その道に進もうと考えたことはなかった」。当時はまだ、漫才や演芸ではない「女性芸人」が存在しなかったのだ。でも、おもしろいことを考えるのが好きだった清水さんは、サブカル雑誌やラジオ番組にせっせと投稿を続けた。

 「お笑い芸人にあだ名をつけるとか、新しい格言を考えるとか……。今思えば全然おもしろくないネタだけど、自分が考えたことが活字になったりオンエアされたりするのがすごくうれしかった」

 短大卒業後、バイト先のオーナーがラジオ局でディレクターをしていた親戚を紹介してくれたことをきっかけに、構成作家の仕事を始める。ネタを書きながら、自らもラジオに出演した。その後、東京・渋谷にあったライブハウス「ジァンジァン」の素人ライブの舞台に立ち、それがテレビ関係者の目にとまって、1年後には「笑っていいとも!」のレギュラーの座を手にする。1988年にはダウンタウン、ウッチャンナンチャン、野沢直子さんと共演の伝説のコント番組「夢で逢えたら」で一気にお茶の間の人気者にーー。

 トントン拍子に見える芸能活動。清水さんは、しかし、人知れず挫折を味わっていた。

 「たくさんの場数を踏んできたたたき上げの芸人さんと自分はこんなに違うのか。ショックでした。学生時代、クラスでふざけて笑いを取り、そんな自分はおもしろいと思っていたけれど、本気でふざけるには覚悟がいると気づかされたのです」

「自分の性分」に気づく。無理することはやめようと決めた

 もう一つ、気づいたことがあった。「自分の性分」だ。

 「無理してひょうきんになろうとしても、それは私らしくない。無理することはやめようと決めました。私の性分に合っているのは、一人でネタを考え、それをライブで表現することだ、と」

 清水さんといえば、やっぱりモノマネ。桃井かおりさん、松任谷由実さん、大竹しのぶさんに、最近では藤田ニコルさんから小池百合子東京都知事まで。特徴を絶妙に捉えた顔マネはもちろん、「この人、それ言いそう!」という言い回しが見る者のツボにハマる。

 「私がマネするのは『この人になりたい』と思うほど好きな人。マネしているというよりは、なりきってるんです」。でも、どれだけ好きでも、必ず少しの皮肉や揶揄(やゆ)を入れる。それが流儀だ。

 「『この人ってステキ、こんなに素晴らしい』と手放しで絶賛するモノマネは、見ていてもつまらない。お笑いって共感が大切。『私もあの人に対してそう感じてた』っていう、ちょっと意地悪な気持ちを共有できると、すごく笑ってもらえるんです」

 好きという純粋な気持ちと、高いプロ意識。それがあるからこそ、「ご本人」から認められ、喜ばれるのだろう。見る者は溜飲を下げ、思わず笑ってしまうのだろう。

 とはいえ、浮き沈みの激しい芸能界で長きにわたって人気タレントであり続けることは簡単なことではない。実は今から20年ほど前、空回りしていると感じたことがあった。

 「100パーセントの力を出し切ったのに、ライブが盛り上がらない。こんなに頑張ったのに、なんで?……と落ち込みました。でも、その頑張りがいけなかった。必死すぎる芸って、見てておもしろくないんです」

 清水さんがたどり着いた答え。それは「頑張りすぎないこと」。ほどよく力を抜き、7割、8割の力で。すると、受けた。顔マネも、丁寧に作り込みすぎない方が意外と出来栄えがいいことに気づいた。

 「主婦の方もそうだけど、100パーセント完璧に家事をこなしても見返りがないとしんどくなる。力も手も少し抜いて『いい加減』ぐらいの方が幸せなんじゃないかな、って」

 清水さんは「笑っていいとも!」にレギュラー出演していたころに娘を出産。仕事を続けながら子育てをしたが、「母親としても頑張りすぎなかった。そのおかげか、娘は私には似ないでとても真面目に育ってくれました」と笑う。

一番私らしく幸せな気分でいられるのは……

 「私に還る場所は?」と問うと、少し思いを巡らせ、こう答えた。

 「一番私らしく幸せな気分でいられるのは、ライブで誰かになりきって好き勝手やってるとき」

 ライフワークの一人ライブは全国ツアーをするなど好評で、4年前からは武道館でも開催。この春も「国民の叔母 清水ミチコのひとりジャンボリー RETURNS」の追加公演を行い、日本中のみっちゃんファンを沸かせた。にもかかわらず、「これからも現状維持でやっていければ」と控えめだ。

 終始、淡々と質問に答えてくれた清水さん。最後に、ちょっぴり申し訳なさそうにこんな胸の内をつぶやいた。

 「色々なインタビューで自分の半生を話してきたんですが、いつも同じような話しかできないのがもどかしくて……。もっとおもしろいエピソードがあったはず、思い出せ、そこは頑張れよ私!って思ってるんですけどね(笑)」

 自分のこともどこか客観的に見て皮肉る。その観察眼が、絶妙にスパイスが効いた変幻自在のモノマネを生むのかと妙に納得した。

 これからもたくさん笑かしてくださいね、清水さん。

撮影協力: マーサーブランチ (六本木)

PROFILE

清水 ミチコタレント

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岐阜県高山市出身。1983年ラジオ番組の構成作家を始め、翌年からテレビCM(森永、バスボン、キンチョウ、全日空他)の声のキャラクターを務め始める。
86年、渋谷ジァンジァンにて初ライブ。87年フジテレビ系『冗談画報』にてTVデビュー、同年『笑っていいとも!』レギュラーに。同年『幸せの骨頂』でアルバム・デビュー。翌88年スタートのフジテレビ系『夢で逢えたら』レギュラー出演。
92年『飴と鞭』、2005年『歌のアルバム』、06年『リップサービス』とアルバムを発表。デビュー20周年を迎えた07年の全国ツアーの模様を初のDVD『LIVE!清水ミチコのお楽しみ会“リップサービス”』として08年に発売。09年8枚目のアルバム『バッタもん』発表。12年、初のベスト・アルバム『清水ミチコ物語』、15年に10枚目のアルバム『趣味の演芸』をリリース。
http://4325.net/

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