MUSIC TALK

「奇跡の世代」と音楽やってきた先に 高橋幸宏(前編)

  • 2016年1月15日

撮影/山田秀隆

  • 撮影/山田秀隆

 世界が認めた伝説のバンドのメンバーとして活躍し、国内外のアーティストに大きな影響を与えた高橋幸宏さん。アメリカ文化の洗礼、ビートルズの衝撃、同世代アーティストたちとの出会い、そしてYMO結成――。1960年代から80年代にかけ、日本の音楽シーンに旋風を巻き起こしながら駆け抜けたあのころを振り返る。(文 中津海麻子)

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音楽をする兄たちが憧れだった

――音楽に出会い、魅せられた体験をお聞かせください。

 僕は5人兄弟の末っ子で、音楽に関してはすぐ上の兄の影響を強く受けました。1960年代半ばのエレキブームのころ、兄貴は慶応大学でフィンガーズというバンドを組んでいて。メンバーはブリヂストンの創業者の孫とか、歌人・齋藤茂吉さんの孫とか、いわゆる慶応のぼんぼんバンド。実力はあって、グループサウンズのバンドとしてプロデビューも果たしました。楽しそうに音楽をする兄貴たちの姿は、少年だった僕には憧れでしたね。

 やはり兄の影響で、アメリカ映画も大好きに。小学5年生のころに見た「罠にかかったパパとママ」に出ていた女の子、ヘイリー・ミルズに胸キュンでしたね。彼女が歌った主題歌「レッツ・ゲット・トゥゲザー」が、人生で最初に買ったレコードです。

 アメリカのホームドラマにも夢中になりました。「カレン」という青春ドラマでは、ビーチボーイズが主題歌を歌っていたのが印象に残っています。当時、サーフィンやホットロッドと呼ばれていたアメリカン・ポップスに触れながら、僕は音楽と同時にファッションにも目覚めていった。ドラマに出てくるアメリカ人はとにかくおしゃれでしたから。「お父さんがボタンダウンのシャツ着てるんだぜ」なんて、驚きながら友だちと話したものです。

 そんなアメリカの洗礼を受けた僕の前に衝撃的に現れたのが、ビートルズでした。音楽そのものはもちろん、ボーカルバンドというのが驚きだった。当時はインストものがほとんどでしたから。それとファッション。全員スーツという出で立ちや、トレードマークのマッシュルームヘアも、とにかく圧倒的にかっこよかった。あの髪形を今見ると全然長くないんだけど、当時は「不良がする長髪」なんて言われていて(笑)。アルバムはすべて買って、熱狂しながら聴いていましたね。

細野晴臣との出会い

――自ら演奏を始めたのは?

 小学5年のとき、クリスマスプレゼントで母にドラムセットを買ってもらい、たたくようになりました。誰に習うわけでなく、完全な我流。洋楽を聴いて、ドラムの音を記憶して、たたいてみる。最初にお手本にしたのはベンチャーズ。FENや、大橋巨泉さんが司会で、洋楽に合わせて若者が踊る「ビートポップス」といったテレビ番組が情報源でした。

 ちなみにドラムを選んだのは、当時日本のバンドではドラムが一番えらかったから。クレージー・キャッツのハナ肇さんや、ザ・スパイダーズの田辺昭知さんなど、なぜかリーダーはドラムだったんです。でもその後、ドラムなんかにするんじゃなかったと何度後悔したことか……。だって、ドラムじゃ、ギターやピアノみたいに女の子を口説けないでしょ?(笑) 若大将シリーズの加山雄三さんを見ては「いいよなぁ、ギター1本であんなかわいい子を口説けるなんて」と本気でうらやましがっていました。

 中学になると、兄から「それだけたたけるならフィンガーズでやらないか?」と誘われ、ダンパ(ダンスパーティー)でときどき演奏するようになりました。立教高校時代には友だちとブッダス・ナルシーシーというバンドを結成。当時、夏になると慶大の学生バンドが軽井沢の三笠ホテルに集まり、ひと夏じゅうダンパを開催していて、そこで演奏していたんです。

 細野晴臣さんと出会ったのも、このころ。僕らのバンドと慶大のバーンズという松本隆さんがいたバンドで対バンをしたときに、相手のバンドでベースを弾いていたのです。細野さんは立教大の学生で、トラ(エキストラの略語。メンバーの代理で出るプレーヤーのこと)だったみたい。僕らのバンドは雑誌の取材なんか受けていたこともあって、細野さんは「生意気なヤツらだ」と思っていたそうです(笑)。そう言いつつも、「君たちにそっくりなタイプの高校生を知ってるよ」と、スカイというバンドを紹介してくれました。メンバーは、鈴木茂、林立夫、小原礼の3人。彼らとはよく一緒にセッションしました。その後、鈴木と林は細野さんとティン・パン・アレーに、小原は僕とサディスティック・ミカ・バンドに加入することに。少し下には山下達郎、大貫妙子、矢野顕子等がいて、周りからは「奇跡の世代」なんて言われましたね。

――日本の音楽シーンを牽引していくことになる人たちとの出会いにあふれていたんですね。

 初めて会ったときのことは鮮明に覚えていますが、それからどんなふうにみんながつながっていったのかは、正直言ってわからない。今みたいにスマホやSNSがあったわけじゃないのに、不思議ですね。

 高校時代には、家に帰るとユーミンがよく遊びにきていましたね。兄貴のバンド、フィンガーズの追っかけだったみたいで、僕の姉とも仲が良かったんです。そうこうしているうちに一緒に演奏するようになり、僕が高2、ユーミンが中3のときにはTBSの番組「ヤング720」に出て、彼女の曲「マホガニーの部屋」を演奏しました。これはユーミンのデビュー後に詞を変え、「翳りゆく部屋」として発売された曲ですね。

 この番組で出会ったのが、ザ・フォーク・クルセダーズを解散し、ソロ活動をしていたトノバン(加藤和彦さん)です。彼は僕らの演奏をひな壇みたいなところから眺めていた。チリチリのパーマヘアに革ジャンで、めちゃくちゃかっこよかったなぁ。そして、僕が19歳のときトノバンに誘われ、彼が結成したサディスティック・ミカ・バンドに加入することになるのです。

サディスティック・ミカ・バンドが英国で評価されて

――サディスティック・ミカ・バンドは、海外で高い評価を受けたのですよね。

 今も昔も音楽はまずコピーから始めるんだけど、あのころは「ロックって西洋の民族音楽なんだ、しょせん日本人には本当のロックなんかできない」なんて、みんなコンプレックスの壁にぶつかりました。そんな中、トノバンには「オリジナルを作って海外でやってみたい」という思いがあったようです。実際、ファーストアルバム「サディスティック・ミカ・バンド」が、ビートルズやピンク・フロイドも手掛けたイギリスの音楽プロデューサー、クリス・トーマスの目にとまり、セカンドアルバム「黒船」は彼のプロデュースでリリースすることになるわけですからね。

 1975年には、ブライアン・フェリーがボーカルをつとめた人気ロック・バンド、ロキシー・ミュージックの全英ツアーにオープニング・アクトとして同行しました。リバプール、グラスゴー、マンチェスターとまわり、ロンドンへ。ロキシー・ミュージックが全盛のころで会場はどこも盛況、僕らの音楽に対しても想像を超える熱狂ぶりでした。イギリスの名だたるロックスターがミカ・バンドを見に訪れ、楽屋まで来たことも驚きでした。

 ところが、日本に帰ってきたら拍子抜けするほど静かだった。あのころは海外で評価されたものが受けない風潮があったし、「日本を捨てるのか」なんて言われたりしてね(笑)。ただ、あのイギリスツアーがあったから、YMOのワールドツアーも臆することなく乗り切れた。そのぐらい貴重な経験でした。

教授は出会ったことのないタイプだった

 教授(坂本龍一さん)に初めて会ったのも、ミカ・バンドの時代でした。僕らが出演した日比谷野音のイベントで、教授は(山下)達郎くんのバックでキーボードを弾いていた。長髪、切りっぱなしのジーパン、ゴム草履で、足の爪は真っ黒! 完璧なヒッピーですよ(笑)。彼からあとになって聞いたのですが、そのときケンゾーのジャンプスーツにスカーフを巻いている僕を見て、「こんな女みたいな格好したやつがロックなんてできっこない」と思ったとか(笑)。お互いにそれまで出会ったことのないタイプだったことが刺激的で、すぐに家を行き来する仲になりました。教授はセッションミュージシャンとしてジャズには詳しいけれど、ポップスは感覚ではなくロジカルに分析しないとダメなタイプ。それが僕にとっては非常に興味深かった。

 その後、細野さんから誘われてイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成することになります。教授は「あのころの勝手でワガママな自分を殴ってやりたい」とよく言ってますね。「バイト感覚でOKならやってもいい」なんてことを、言ったんだか、思ったんだかしたらしい。教授がやりたかったのは現代音楽で、コンピューターでどこまで実験音楽ができるかには興味はあったけれど、決してポップミュージックをやりたいわけではなかったから。

 しかし、そんな教授と細野さんと僕が一緒になったことで次々と化学反応を起こし、新しい音楽を生み出していったのです。

後編はこちら

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高橋幸宏(たかはし・ゆきひろ)
1952年生まれ。サディスティック・ミカ・バンド解散後、サディスティックスを経て78年、細野晴臣、坂本龍一とともにイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。83年「散開」。ソロとしては現在までに通算23枚のオリジナル・アルバムを発表。また、ソロと併行して鈴木慶一(ムーンライダーズ)とのザ・ビートニクスとしても活動。2001年、細野晴臣とスケッチ・ショウを結成。07年、小児がんなど病と闘う子どもを支援するコンサートに、スケッチ・ショウ+坂本龍一のユニット、ヒューマン・オーディオ・スポンジ(HAS)で出演。同年、原田知世、高野寛、高田漣、堀江博久、ゴンドウトモヒコとともにpupaを結成。08年から毎年、野外夏フェスイベント「ワールドハピネス」のキュレーターをつとめている。14年、小山田圭吾、砂原良徳、テイ・トウワ、ゴンドウトモヒコ、LEO今井とともに、高橋幸宏&METAFIVEを結成(15年、METAFIVEに改名)し、16年1月にアルバム「META」をリリース。

高橋幸宏オフィシャルサイト:http://www.room66plus.com/

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