太陽のまちから

袴田さん釈放に万感 問われる国の責任

  • <太陽のまちから> 特別寄稿
  • 2014年3月28日

写真:東京拘置所を釈放された袴田巌さん。奥は姉ひで子さん=27日午後5時20分、東京都葛飾区 東京拘置所を釈放された袴田巌さん。奥は姉ひで子さん=27日午後5時20分、東京都葛飾区

写真:姉のひで子さん(左)に付き添われ、車いすに乗りホテルを出る袴田巌さん=28日午前9時すぎ、東京都港区 姉のひで子さん(左)に付き添われ、車いすに乗りホテルを出る袴田巌さん=28日午前9時すぎ、東京都港区

 無実の死刑囚として拘置されていた元プロボクサーの袴田巌さん(78)が、48年ぶりに釈放されました。3月27日午後5時、東京拘置所から出てくる映像を見て、万感こみあげるものがありました。

 私が袴田さんの置かれている立場を知ったのは、衆議院法務委員会に属して活動していた1998年のことでした。人権問題をたびたび法務委員会で取り上げていることを知って、姉のひで子さんが支援者の方々と議員会館に訪ねてこられたのです。

 当時、すでに30年を超える長期の拘置が続き、しかも確定死刑囚として20年あまりも「死刑執行の恐怖」にさらされていた袴田さんは次第に心の変調をきたすようになっていました。90年代半ばには、弟の無実を信じて励ましてきた唯一の理解者であるひで子さんの面会も拒絶するようになった、と聞きました。

 私の仕事は、拘置所での袴田さんの身体や精神の状況をできるだけ詳細に聞き取り、ひで子さんや弁護団、支援者に伝えることでした。袴田さんは裁判の中で、「神さま―。僕は犯人ではありません。僕は毎日叫んでいます」(母親にあてた手紙)などと大量の手紙を記して、無実を訴えていました。司法の場で自らの潔白が証明されることを信じていたのです。

 ところが、68年、静岡地裁で死刑判決。76年、東京高裁で控訴棄却、80年に最高裁で上告が棄却され、死刑が確定します。

 しかし、一審で死刑判決を出した静岡地裁は、警察・検察による連日12時間に及ぶ取り調べによって作成された45通の供述調書のうち、じつに44通を「違法な取り調べ」によるものとして棄却しました。長時間にわたり自白を迫る強引な調書作成過程の信用性を認めませんでした。それでも、残る1通を採用して死刑判決を出したのです。

 94年、一縷の望みをかけた再審請求が静岡地裁で棄却されると、袴田さんは裁判関係書類の差し入れを拒否し、弁護士とも面会しなくなりました。

 誰とも会わなくなって3年半以上続いた袴田さんの様子をみるために、私は半年ががりで法務省矯正局と交渉して、東京拘置所での面会にこぎつけました。2003年3月10日、私は姉のひで子さんと弁護士と一緒に袴田さんと会い、言葉をかわしました。

 しかし、袴田さんは、空想の世界の住人になっていました。このときの様子は、「塀の中に閉じ込められた『秘密』の闇」として、このコラム(2013年11月19日)で触れましたが、あらためて記します。

 保坂 「元気ですか」
 袴田 「元気ですよ」
 保坂 「今日はあなたの誕生日ですが、分かります? 67歳ですね」
 袴田 「そんなことを言われても困るんだよ。もういないんだから、ムゲンサイサイネンゲツ(無限歳歳年月?)歳はない。地球がないときに生まれてきた。地球を作った人……」
 保坂 「ご両親についてお話したい」
 袴田 「困るんだなー。全てに勝利したんだから」
     「無罪で勝利した。袴田巌の名において……」
     「神の国の儀式があって、袴田巌は勝った。日本国家に対して5億円の損害賠償を取って……」
 保坂 「5億円はどうしたんですか」
 袴田 「神の国で使っている」
 保坂 「袴田巌さんはどこに行ったのですか?」
 袴田 「袴田巌は、智恵の一つ。私が中心になった。昨年儀式があった」 

(詳細な記録はこちらへ)

 長年の拘置によって精神に変調をきたす拘禁反応が強く出ていて、すぐにでも治療が必要な状態でしたが、何の治療もなされませんでした。

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PROFILE

保坂展人(ほさか・のぶと)

1955年、宮城県仙台市生まれ。世田谷区長。高校進学時の内申書をめぐり、16年間の「内申書裁判」をたたかう。教育ジャーナリストを経て、1996年より2009年まで衆議院議員を3期11年(03~05年除く)務める。2011年4月より現職。『闘う区長』(集英社新書)ほか著書多数。


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