太陽のまちから

「小さな大人」として向き合ってくれた父

  • 文 保坂展人
  • 2014年8月19日

 夏の夜空を見上げていると、亡くなった父の姿がおぼろげな幻灯写真のようによみがえっきます。父の誕生日が8月14日だったので、お盆とも重なるからでしょうか。

 このコラムで書いてきた母子関係の問題では多くの場合、父親の姿が見えませんでした。最近では、「イクメン」と呼ばれ、育児に積極的に関わる父親の存在が脚光を浴びていますが、日本の長時間労働が常態化した社会で父子の間に何が欠けているのでしょうか。

会話、対話、おしゃべり、雑談……。父と子の間にどれだけのコミュニケーションがあるのかを考えてみると、意外と乏しいのではないかという声が聞こえてきます。時には、父子で話し込むことがあってもいい。それが嵐のような思春期を子が乗り切る命綱になる場合もあるのではないでしょうか。

 幸い、私は生前の父と幼い頃からよく話し、また議論することも多かったことを思い出します。

 父は悩める人でした。感情にもろく、人前で泣くこともしばしばありました。しかし、意地を通す人でもありました。常に現状にあきたらず、探求と向上のために勉強を欠かさないのも、父の流儀でした。

 印象に残る父との思い出は風呂場での会話です。父は、若いころに肺結核を患い、左側の肋骨(ろっこつ)の多くを手術の時に切り落としていました。背中は左側が何かにえぐられたように大きくくぼんでいました。私がヘチマを使って背中を流すと、とても気持ちがいいようで上機嫌でした。

 湯船につかると、「何か質問はあるか」と父は言います。私は「宇宙の果てはどうなっているのだろう」とか、「時間を超えることってできるのか」などという質問を繰り出しました。もともと、文科系の父はすぐに答えることができません。そのため仕事の合間に調べたのか、数日後にメモを見ながら答えてくれました。時間がたっても、風呂場での質問を覚えていてくれることがとても嬉しかったことを覚えています。

 小学校の5年生にもなると、私は毎晩、TBSの夕方のニュースを欠かさず見ていました。当時のキャスターは、古屋綱正さんでした。激しさをますベトナム戦争のニュースは胸にささりました。「なぜ、戦争を止められないのか」と正面から父に聞いたこともあります。さらに、「日本の戦争を止められなかったのはなぜ」と強く責めるような調子で問いかけた記憶もあります。

 私の質問に対して、父は以前のように答えてはくれなくなりました。代わりに、子どもにもわかるような近現代史の本を買ってきてくれました。父の部屋は本で埋まっていました。多くは戦前の岩波文庫など旧仮名遣いでしたが、手あたり次第に私は読み出しました。

 父は私を「君(きみ)」と呼んでいました。何かあった時、「君はどう思うか?」と聞かれることも普通でした。こうして考えてみると、「おまえ」と呼ばれたことは一度もなかったことに気づきます。父は、一人前の人間として、たとえ幼くても私を尊重してくれたのだと思います。父は子どもである私を「小さな大人」として扱っていました。

 その父は、厳格な家庭で育ちました。父の父、つまり私の祖父は、戦前に宮城県仙台市の女子高の校長をつとめていました。成績優秀だった2人の姉に比べて、あまり成績がふるわなかった父は、一人になるとハモニカばかり吹いていた、と言っていました。権威的な家庭の中で、祖父と父は「会話」「対話」の成立する関係ではなかったようです。病気療養のために兵隊に行かなかった父は、戦争が終わると演劇青年として劇団を結成、演出を手がけます。その劇団に入ってきた女の子が後に結婚した母でした。

 父は悩みを隠さない人でした。家の中で、「しまったぁー」「あー、失敗した」と叫ぶことは日常茶飯事でした。聞いてみると、「心配りが足りなかった」とか「御礼を言うのを失念した」など些細(ささい)なことも多かったのですが、深刻なこともありました。

 仕事上のストレスが重なって顔面蒼白になり、明らかに大きな壁にぶつかっていた時、小学5年生だった私が、スタンドをひとつ灯しただけの暗い部屋で1時間も2時間も父の悩みを聞いたことがあります。背景も言葉も十分には理解できない子どもの頭で相槌(あいづち)を打ちながら、最後は「お父さん疲れているから、少し休んだ方がいいよ」と言うのが精一杯でした。

 やがて父は壁を超えて、平穏な日常が戻ります。けれども、私は一度登った「小さな大人」のヤグラから降りられなくなっていました。短い期間とはいえ、親が子を保護するための柵の中から抜け出して、むしろその柵を保守・点検するような役割を果たしているような感覚を抱くようになりました。

 もちろん、いつも難しい話をしていたわけではありません。休日にキャッチボールをしたり、将棋をさしたり、行楽に出かけたりといった、1960年代の「家族」によくある日常の光景も、たっぷりありました。そんな場面でも「君」と呼ばれてきた私は、いつか心の深いところで自信をつけていきました。 

 それは「人として尊重される」という、さわやかな感覚でした。「教育」や「訓導」ではなく、「小さな大人」として向き合い、つきあい、会話することを続けてくれた父によって、他者に依存したり頼ったりすることなく、たとえ未熟であっても自分の力で考え、自分で回答を導き出すという私の根っこがつくられたように思います。

 一世代前の「父親像」は寡黙で、怒りだすと怖くて、子どものすべてを支配するかのようなイメージが強かったかと思います。子どもを叱る時も、「おまえは甘い」「世の中、おまえの思う通りにはならない」などの否定形がよく使われたのではないでしょうか。企業社会や組織の規範意識を逸脱するな、と厳しく注意する一方通行の言葉しか口にしない父親像が一般的でした。

 そうした時代に、互いに語り合い、会話を楽しみ、質問に答え、人生を論じる……。私と父のような親子関係は、一般のものとは対極にあったのかもしれません。穏やかな追憶とともによみがえってくるのは、少年時代のワクワクドキドキとした気持ちです。それがいまの私をつくり、前へ進む力を生みだしているように思います。

 夏休みだけに、たとえ短くても「小さな大人」たちと正面から向き合い、語り合う時間を持ってみるのも悪くないかもしれません。

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PROFILE

保坂展人(ほさか・のぶと)

1955年、宮城県仙台市生まれ。世田谷区長。高校進学時の内申書をめぐり、16年間の「内申書裁判」をたたかう。教育ジャーナリストを経て、1996年より2009年まで衆議院議員を3期11年(03~05年除く)務める。2011年4月より現職。『闘う区長』(集英社新書)ほか著書多数。


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