太陽のまちから

追悼 菅原文太さん 最後まで警鐘鳴らし続けた

  • 文 保坂展人
  • 2014年12月2日

写真:菅原文太さん 菅原文太さん

 俳優の菅原文太さん(81)が亡くなりました。

 私の脳裏には、「このまま黙ってはいられない」と静かな表情ながら、強い気迫をもった文太さんの朴訥(ぼくとつ)な語り口がよみがえってきます。訃報は12月1日の午後に届きました。

 総選挙の公示のニュースを吹き飛ばすように、テレビ各局は昨夜から「菅原文太さん追悼」特集を組み、日本の映画界をリードした多くの名場面をピックアップしています。いくつかの番組では、「晩年は、農業を営んで、社会的発言を積極的にしていた」と、さらりとまとめられていますが、その「社会的発言」の内容とは何だったのでしょうか。

 強烈な利益追及のためには環境破壊を躊躇(ちゅうちょ)しない物質文明への批判であり、原発再稼働に立ちはだかろうとする意志でした。それは、「自堕落な政治」に対する菅原文太という男の叫びであり、憤りをこめた警鐘だったように思います。

 私が文太さんとお会いしたのは2012年3月。世田谷区が区庁舎で使用している電力を「競争入札」にかけて、東京電力以外の新電力(PPS)を導入したことが大きく報道された後のことだったと記憶しています。友人を通して「菅原文太さんが大変興味を持っていて、激励したいと言っている」と伝わってきました。私もまた、映画館で見続けた文太さんにお会いする時には、わくわくしました。

 初対面はニッポン放送のスタジオでした。せっかく話をするなら、文太さんがパーソナリティーをつとめているニッポン放送の『ニッポン人の底力』で対談しようということになったのです。

 文太さんは「東日本大震災」と「福島第1原発事故」に強い衝撃を受けていたと同時に、政治の混迷も深く憂いていました。そのため、「エネルギー転換を自治体から進めている」という世田谷区の試みに強いエールを送ってくださいました。今も収束していない福島第1原発事故の影響で多くの福島の人たちが塗炭の苦しみを味わっていることに唇をかみ、原発依存から脱却して自然エネルギーを活用する方向へと「日本が、社会が変わっていかなければならない時だ」と含蓄のある口調で語っていました。

 その後、何度か下北沢で食事をしながら話をする機会がありました。私も文太さんと同郷、宮城県仙台市生まれです。戦争中に栗原に疎開をして、空襲で仙台から火の手があがるのを見つめていたという話を聞きました。「今の政治家はどうして『戦争はいけない』という、こんな簡単なことがわからないんだろうか」と何度も問いかけられました。

 2012年の秋、週刊誌が大きく報じたのが「菅原文太の新党『いのちの党』決起宣言」(「サンデー毎日」11月25日号) でした。文太さんの憂いと憤りは、行動に結びつき「いのちの党」を結成するという内容でした。私も、「いのちの党」の設立趣意書となる「参加のお願い」を文太さんから受け取っています。長文ですが、紹介します。

<日本経済が停滞する中で起きた東日本大震災とそれに起因する福島原発事故は、科学技術の発達が必ずしも予知を含めて万能ではなく、今日のわが国の社会がきわめて不完全な技術の上に成り立っていたことを明らかにしました。
 一方で、手に職をつけるものづくりの現場の多くが海外に移転し、いのちを養う農林水産業では輸入品が増え、働き手の高齢化や若い人たちの就労意識の変化などが地方の活力の衰退をさらに深刻なものとしています。また、社会に様々な格差が広がり、若い世代から将来への希望も消えつつあります。
 私たちは、科学文明の恩恵を享受するだけでなく、地球環境やいきもののいのちを大切とし、若い世代が生き甲斐と希望をもって生きることのできる社会を築いていかなければなりません。
 困難な時代に生きる次世代や後世のために、志を持って日本各地からサムライたちが集まりました。「いのちの党」です。志を一つにする在野の人々の集まりです。政党がこの国を間違った方向に向かわせないように、しっかり見張っていくのもこの集まりの役目です。女性や若い世代の方はもちろん、いのちの党の志にご賛同下さる方々の参加をお待ちしています。 (代表 菅原文太)>

 こうして、いのちの党の呼びかけが広がり、各界で活躍する著名人が続々と発起人として集まりました。「政党」とは一線を画して「志を持つゆるやかな個人の集まり」とし、文太さんの呼びかけのもとにその冬にはシンポジウムが開催されました。多くの人が集まり、熱を帯びた議論を重ねていました。この「参加のお願い」をあらためて読み返すと、文太さんの憂いや憤り、そして後に続く世代への強い愛を感じます。

 「脱原発」を掲げて元首相の細川護煕さんが、同じ元首相の小泉純一郎さんと共に都知事選挙に出ようとしている時にも、文太さんと何度かお話ししました。文太さんは、細川さんの応援のために記者会見や街頭でも応援に駆けつけました。後日、ふたりが立ち上げた「自然エネルギー推進会議」の発起人にもなっています。

 また、亡くなる直前の11月1日には、沖縄県知事選で「辺野古基地移転反対」を訴える翁長雄志さん(現知事)を応援する街頭演説にも立っていました。「政治の最大の役割は、絶対に戦争をしないこと」と力強く訴えています。

 私が、最後にお会いしたのはその1カ月前、やはり番組収録の同じスタジオでした。このコラムをまとめた本を事前にお送りしていたら、2晩にわたって紹介してくれました。「特定秘密保護法」や「集団的自衛権行使容認」の危険な動きが強まっていることに、いつにもまして立腹され、「このままではダメになるが、何とか打開できますか」と繰り返し問いかけられました。晩年の文太さんを動かしていた永田町の政治への義憤と強い危機感を、私もまた周囲の人々に伝えていかなければと思います。

 昭和を代表する俳優が亡くなっただけでなく、今を生きる私たちに文太さんが渡そうとしたバトンをしっかりと握っていこうと思います。

菅原文太さん追悼ページはこちら

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PROFILE

保坂展人(ほさか・のぶと)

1955年、宮城県仙台市生まれ。世田谷区長。高校進学時の内申書をめぐり、16年間の「内申書裁判」をたたかう。教育ジャーナリストを経て、1996年より2009年まで衆議院議員を3期11年(03~05年除く)務める。2011年4月より現職。『闘う区長』(集英社新書)ほか著書多数。


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