鎌倉から、ものがたり。

<7>システムエンジニアから転じた焙煎人/石かわ珈琲

  • 文 清野由美 写真 猪俣博史
  • 2015年1月9日

閑静な住宅街にある一軒家が「石かわ珈琲」

  • 閑静な住宅街にある一軒家が「石かわ珈琲」

  • 木造のほっとする空間

  • 黒板の端正な文字に、店主の誠実さが表れている

  • オリジナルブレンドもシングルオリジンの豆も間違いのないおいしさ

  • つやつやと香ばしく焙煎されたエチオピア

  • 石川新一さんと、奥さんの久美子さん

  • 能登のギャラリーで見つけたコーヒーカップが、石川さんの淹れるコーヒーによく合う

 ホームのすぐ横に禅寺の円覚寺があり、閑静な邸宅街が広がる北鎌倉は、鎌倉の中でも侘(わ)びた品格に包まれた一帯だ。

 北鎌倉の駅から、あじさいで有名な明月院を経て、山側の住宅街へと細道をそぞろ歩くこと10分。石積みの高い土台塀の上に、石川新一さん(46)の営む「石かわ珈琲」が隠れている。

 傾斜のある石段をのぼって、玄関の扉を開けると、落ち着いた木造の空間が出迎えてくれる。カウンターの横には、きちんと並べられた自家焙煎(ばいせん)のコーヒー豆。温かみの中に、どこか知的な雰囲気が漂う店は、2009年にオープンした。

 店ではケニア、コスタリカ、インドネシアなど、世界各地の高品質な生豆だけを扱い、石川さんみずからが焙煎する。「あじさいブレンド(中煎り)」「めいげつブレンド(中深煎り)」「きたかまブレンド(深煎り)」といった看板ブレンドは、それぞれの豆を繊細にブレンドした、石かわ珈琲ならではの味わいだ。

 工学部出身で、大手シンクタンクにシステムエンジニアとして勤務。「コーヒーとはまったく関係ない」人生を送っていた石川さんが、コーヒーと深く関わるようになったのは、2000年代のはじめに、東京の世田谷にある「堀口珈琲」で口にした1杯がきっかけだった。

「それまでもコーヒーは好きで、いろいろな店で飲んでいましたが、その時の味にはとても驚きました。深煎りの苦味の中に、酸味が融合して、味に深みと奥行きがある。こんなにおいしいコーヒーがあったのか、と」

 堀口珈琲では、スペシャルティコーヒーがまだ広まっていない時代から、店主の堀口俊英さんが、みずから海外の農園をたずね、選び抜いた豆を自家焙煎で淹れていた。

 当時、30代半ばの石川さんは、毎日夜中まで仕事に追われ、家には寝に帰るだけという典型的な会社員。私生活を犠牲にして働いても、結局は組織の歯車で、評価される機会はほとんどない。かといって、会社を辞めて何がやりたいかも分からない。その葛藤を、コーヒーが吹き飛ばしてくれた。

 堀口珈琲が主宰するセミナーに参加する一方で、コーヒーに合うお菓子を研究したいと、製菓学校にも通った。そして、1年後に会社を辞めて、堀口珈琲に転職。給料は時給制で、「年齢に見合う金額ではなくなる」と堀口さんから心配されたが、ここで過ごした時間は、その後の石川さんを支える貴重な土台となる。

 世界中から高品質なコーヒー豆が集まってくる店で働いて、あらためて認識したのは、「コーヒーでいちばん大事なことは豆の品質」という基本だ。焙煎や抽出は、素材である生豆の持つポテンシャルを、最大限引き出す作業であり、それは決しておいしさを加えるものではない。そのコーヒー豆の特徴や個性を判断し、適正な焙煎に仕上げることが、焙煎人に要求される技とセンスになる。

「コーヒーは農作物なので、産地や生産年によって味が違ってきます。一つの豆について、深煎りから浅煎りまで試行を繰り返しながら味を覚えていくには、圧倒的な量のコーヒーに毎日のように接しないとできないことだったと、今でも思います」

 勤続3年めに、独立を見越して店舗物件を探しはじめた。最初は住まいのあった横浜を考えていたが、町場の商業地にはなかなかピンとくるものがない。それ以前に、店と自宅と二重にかかる家賃のことを考えると、理想の店を実現するのはなかなか厳しかった。

「それなら思い切って、店舗兼用の家を買ってしまおう」。発想を切り替えた時に、以前から好きだった鎌倉の地に目が行った。10軒以上の物件を見ながら最終的に決めたのは、繁華街にはずれた北鎌倉駅から、さらに山側に行った所にある、昭和時代に建てられた一軒家だった。

「本当にここで、やっていけるのか?」と、もう1人の自分が問いかけてきたが、すぐ後に、不安をかき消すような経験を得ることになった。

(後編はこちら

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PROFILE

清野由美(きよの・ゆみ)

 ジャーナリスト。1960年、東京都生まれ。東京女子大学卒。英国留学、出版社勤務を経て、91年にフリー。先端を行く各界の人物インタビューとともに、時代の価値観や感覚、ライフスタイルの変化をとらえる記事を「AERA」「朝日新聞」「日経ビジネスオンライン」などに執筆。著書に『新・都市論 TOKYO』『新・ムラ論 TOKYO』(隈研吾と共著・集英社新書)、『ほんものの日本人』(日経BP社)、&w連載「葉山から、はじまる。」を1冊の本にまとめた『住む場所を選べば、生き方が変わる――葉山からはじまるシフトチェンジ』(講談社)など。

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