東京の台所

<94>片づけ上手が今も捨てられないもの

  • 文・写真 大平一枝
  • 2015年2月25日

〈住人プロフィール〉
 非常勤職員(女性)・61歳
 戸建て・3LDK・西武新宿線 都立家政駅(練馬区)
 入居8年・築8年
 次女(25歳)との2人暮らし

 開口一番、「引っ越してきたばかりですか?」と聞きたくなった。

 ガス台のまわりには油さしもやかんもない。すべて引き出しにしまってある。シンクにはスポンジ1個、洗剤1本だけ。茶渋をとるスポンジクリーナーや重曹も必ずしまう。炒めものをしたら、調理道具を端から片付け、油汚れを拭き取っていくのだという。

「若い頃、友の会にちょっと入っていて、家事の仕方などを先輩ママたちから教わったのです。その経験が大きいですね」

 友の会とは、思想家、羽仁もと子が1930年に作った全国組織で、衣食住や家計簿を中心に、健全な家庭運営のための知恵や技術を勉強する団体である。住人は言う。

「私は数字に弱くて家計簿はまったくつけていません。でも、そのとき学んだ“寝る前の10分”などは今も習慣になっています。ものにはすべてしまう場所があり、片付けてから寝る。台所の電気を消す前に火元を確認するのと同じように、片付いているかなと確認します。スッキリきれいな台所だと、朝、気持ちがいいですから」

 洗濯物は洗ったらたたんでカゴに入れ、20分置く。それから干すと、しわになりにくい。

「ちょっとしたひと手間をかけることで、自分が気持ちがいいのでやっているだけなんですよ」

 現在61歳。快適に暮らすための生活の知恵が長い間の習慣となっている人の言葉には無理や気負いがない。

 3年前に夫を病気で亡くし、今は会社員の次女とのふたり暮らしだ。子どもが社会人になってから、週3回、請われて大学で働き始めた。今はそのペースがちょうどいいと言う。

 同居の次女もお菓子作りが好きで、ふたりで台所に立つことも多い。最近も一緒におからクッキーを作ったばかりで「これがぱさぱさして大失敗だったの」と笑う。

 仕事があり、娘との語らいもあり、第二の人生も楽しそうだ。友達からは、「あなたはいいわね。ダンナもいなくて気楽で」と言われることもあるらしい。彼女はこう断じる。

「私は子どもより夫にいて欲しい。夫はまめな人で、買い物も皿洗いも大工仕事も確定申告も何でもやってくれました。今その全部が自分にまわってきます。そのたび思い出すのです。ああ、彼がいてくれたらなあと」

 何歳であろうと、別れは悲しい。ましてまだ3年である。明るく振る舞っているが、心の底にある深い河のような淋(さび)しさとやりきれなさが静かに伝わってきた。私は無遠慮な質問をした。

「まだ、淋しいですか」
「まだまだ淋しいです。とくに買い物するときなんかにご夫婦連れを見るとね」
「イケアやコストコがお好きでよく出かけるとおっしゃいましたが、やはりそんなときに?」
「ああいうところはいいの。人が大勢でごちゃごちゃしていて、それにまぎれられるから。むしろ、お正月の買い出しがきついですね。いつもふたりで行ってた店に、ひとりで行かなくちゃいけない」

 数の子もたくさん買っていたけど、今ではほんの少し。酒も魚も買う機会が減った。週末は庭先でよく七輪で秋刀魚を焼いていたが、もう七輪を出すこともない。

 ひょっとしたら、引っ越してきたばかりのように感じられたのは、ものが片付いているからだけではないのかもしれない。この空間は、ご主人がいて初めて完成するのではないか。

 台所に箸(はし)一本出しっ放しにしない片付け上手な彼女が、いまだに片付けないものがある。外国のアンティークのスプーンをはじめ、夫の持ち物すべてだ。玄関には彼の靴が1足置かれている。

 心の中に誰かが住んでいるという人に、私は初めて会った。

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PROFILE

大平一枝(おおだいら・かずえ)

長野県生まれ。大量生産、大量消費の社会からこぼれ落ちるもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『ジャンク・スタイル』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『信州おばあちゃんのおいしいお茶うけ』(誠文堂新光社)、『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『日曜日のアイデア帖~ちょっと昔の暮らしで楽しむ12か月』(ワニブックス)、『昭和ことば辞典』『かみさま』(ポプラ社)ほか多数。HP「暮らしの柄」 ■レンズ協力:SIGMA ART|18-35mm F1.8 DC HSM、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO HSM

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