東京の台所

<108>心機一転、弁当生活で心身快調に

  • 文・写真 大平一枝
  • 2015年8月19日

〈住人プロフィール〉
教員 (女性)・40歳
賃貸マンション・1DK・JR中央線 荻窪駅(杉並区)
築年数8年・入居8年・ひとり暮らし

    ◇

 ベッドの下の引き出しから、カレーやトマトソースの瓶詰が出てきた。すべて手作りだ。密封するとどれくらい日持ちするのか実験中だという。もう一つの引き出しは、弁当箱でいっぱいだ。曲げわっぱや塗りものが多い。

「高いバッグを買うくらいなら、職人さんの手作りのお弁当箱を買いますね。民芸品店や器屋さんに行くと、つい買ってしまいます」

 7~8年かけて集めたという弁当箱は、ざっと見ただけでも10個はある。その日の気分で選び、職場に持っていくのが日課だ。

「高校の教員をしているので、昼休みは生徒が来たり、委員会があったりとぎれとぎれになりやすいのです。その点、お弁当は食べている途中でふたをぱっと閉じて、また時間ができたときに食事を再開できるので便利です」

 土曜の夜に、豆を水に浸したり、肉の漬け込みなど料理の下準備をする。日曜日の午前中に1週間分の弁当のおかずを作り、午後はお気に入りのティーカップでくつろぐ。弁当作りが1週間のリズムに組み込まれ、いい塩梅(あんばい)に緩急を作っている。

「作り終えると、ああこれで来週も乗りきれるってうれしくなるんです」とのこと。できあいのものに頼らずにすむという達成感があるのだろう。だが、かつて結婚していた頃は、朝昼コンビニで夜も適当にすますという日々だった。

「職場が遠くて往復3時間かかりました。そのうえ上京と結婚と転職が同時期に重なったので、時間的にも精神的にも余裕がなくて……。東京生活に慣れるのが精一杯で、料理やお弁当まで気持ちが追いつきませんでしたね」

 ゆえあって2年半で結婚生活を終えた。夫は帰郷。住人は、家族用の大きな冷蔵庫とともに東京に残った。

「ちょっと無理してでもきれいで広い部屋にしようと思っていたら、ここが見つかって。冷蔵庫も入るし、台所が部屋と独立しているところも良いなと思いました。それから、せっかくだからちゃんと料理をしようと、やりだしたのです」

 新しいスタートだからこそ明るくてきれいな部屋を、という気持ちはよくわかる。そんなふうにして始まった弁当生活は8年目になる。今では朝食用のグラノーラも手作りだ。押し麦、ココナッツ、カシューナッツ、アーモンドスライス、パンプキンシード、ひまわりの種、亜麻仁になたね油を絡ませ、メープルで味付けし、オーブンで焼く。最後にドライフルーツを混ぜて完成だ。

「これだとお通じも良くなります。そうそう、お弁当生活にしたら、むくみもとれて体調もよくなったんですよ。外で買ったものは塩分が強いんだなあとわかりました」

「先生、結婚したこと後悔してる?」

 遠慮のない質問をしてくる生徒には、ありのままを話す。

「後悔してないよ。結婚したから今の暮らしがあるし、それによって気づけたことや得たことがいっぱいあるもの。結婚して良かったなって思ってるよ」

 本当にそう思っているので、と彼女は穏やかな笑みを浮かべた。

 また、料理で得たことも大きい。

「子どもの受験指導って3年間かかるんです。1年のクラスから始めて3年後に結果が出る。でも料理はすぐ結果が出ます。できあがったときが完成。これ、すごいストレス発散になるんですよね。今は自分にとってなくてはならない時間です」

 東京の何もかもが初めてで、全力疾走だった新婚時代にこの生活をやれと言ってもおそらく無理だ。人生の機微を知るには、人それぞれ適したタイミングがある。自分にとって大切なものが見えた今ならまた違う恋愛、結婚生活が可能ではないか。

「また恋なんてできるでしょうか」と彼女は自信のない表情になった。「できますとも。冷蔵庫の中とベッドの下のこんなすごい常備菜を見たら、たいがいの男は恋に落ちますよ」と私は力をこめて言った。

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PROFILE

大平一枝(おおだいら・かずえ)

長野県生まれ。大量生産、大量消費の社会からこぼれ落ちるもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『ジャンク・スタイル』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『信州おばあちゃんのおいしいお茶うけ』(誠文堂新光社)、『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『日曜日のアイデア帖~ちょっと昔の暮らしで楽しむ12か月』(ワニブックス)、『昭和ことば辞典』『かみさま』(ポプラ社)ほか多数。HP「暮らしの柄」 ■レンズ協力:SIGMA ART|18-35mm F1.8 DC HSM、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO HSM

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