東京の台所

<116>夫と別れて開けた新しい景色

  • 文・写真 大平一枝
  • 2016年2月10日

〈住人プロフィール〉
料理研究家・31歳(女性)
賃貸一軒家・2DK・小田急線 喜多見駅(世田谷区)
築年数50年・入居2年・娘(5歳)とのふたり暮らし

    ◇

 埼玉の高校を卒業後、鉄板焼きの仕事をしていた。ある日、なにげなく書店で手にとった本がきっかけで、バックパッグひとつで沖縄に渡った。

 著者は世界放浪の末に、世界各地にカフェやレストランを展開する実業家である。肩書は“自由人”。

 その彼が、沖縄に農業を主体とした自給自足のコミュニティーを主宰していた。彼女は「おもしろそう」という純粋な気持ちに突き動かされてそこに飛び込んだのだった。

「給料はないけれど、ご飯とお酒と寝床はタダ。来るもの拒まずで、日本中からいろんな若者が訪ねてきました。本のイメージと現実は違うと感じ、居着かずに帰る人もたくさんいましたよ。私はそこで玄米や有機野菜の美味しさ、自分の手で野菜を作り食べる楽しさに目覚めました。皮まで残さずまるごと食べる食生活も目からうろこで。変な話ですが、初めてトイレで、トイレットペーパーがいらないくらいするんと出て……。びっくりしましたね。食生活で体とはこんなに変わるものなのかと」

 目の前で鶏をしめて肉にする。命をもらって自分は生かされているのだと理屈でなくわかった。見るもの聞くものすべてが新鮮だった。

 沖縄に渡ってまもなくすると、頼りがいのある年上の男性と結婚した。新婚旅行は半年間、アジアを旅した。

 インドで会った日本人に、東京で居酒屋をやってくれないかと頼まれたので夫婦で引き受けた。1年店を切り盛りし、さてまたインドに行こうと思い立った矢先に妊娠した。

 彼女は実家で里帰り出産し、彼はバーを開いた。

「結婚したのが20代前半で、私は何も知らないひよっこみたいなもの。対する彼は、なんでも知っていて、なんでもできる彼が輝いて見え、ああ私は何もできないんだなあって思い込んでいました」

 乳飲み子を抱えながらの店の経営、献立から料理まで担当する生活は毎日が疲労困憊でくたくただった。そんなとき、どうしても受け入れがたい出来事に遭遇し、離婚を決意する。

 その後、見つけた郊外の今の家は、狭いが隅から隅まで自分の自由にできる夢の城である。何もできないと思い込んでいたが、離婚の手続きも、母子で家を借りることも、そこで料理教室を営むことも、全部ひとりでできた。

「なんだ、私、できるじゃんって。沖縄の頃、料理研究家という仕事があると友だちから聞いて、ずっと心の片隅にあったんです。でも、結婚、妊娠でその夢も忘れていた。添加物を使わず、オーガニックのモノをベースに、おいしくて楽しくて見た目にもカラフルな料理を教える。料理以上に、料理を楽しむことを伝えられるような教室を、よし、今こそやろうと決心したのです」

 まだまだ経済的に軌道に乗せるのは大変で、埼玉の母に子どもを預けたり、東奔西走している。だが、料理教室をすると、次に必ず生徒が別の友だちを連れてくる。大きな宣伝もしていないのに生徒が増え、「今日はこれを作りました」と料理写真を携帯のメールで送ってくれたりすることが何より嬉しいという。

「自分の教えた料理が、誰かの生活に役立つ。生かしてもらえることが嬉しいです。私が小学生の頃暗記するほど読みこんでいたお菓子の本みたいに、いつか自分の料理本を作るのが夢です」

 玄関ドアを開けるとすぐ台所。シンクの横には洗濯が並ぶ小さなスペースだがこれはまぎれもなく彼女の自由のとりでだ。誰の目も気にせず好きなときにワインを飲み、料理を作る。ママに笑顔が増えたので、娘もよく笑うようになった。

「沖縄も、結婚生活も後悔はないです。なるべくしてなり、その日々をなくして今の私はないと思うから。今はささいなことにも幸せを感じる。それがただただ嬉しいです」

 ちょっと作りましょうかと、ささっと生ハムのブーケを作った。紫キャベツ、レタス、人参、パプリカを細長く切り、ハーブとキヌアを和えたものを添えて生ハムでくるむ。見た目も鮮やかで、生ハムの塩味が野菜をひきたてる。

 料理本を出せるかどうか未来のことは私にはわからない。ただ、彼女の料理を習った人が友だちを連れてリピーターになるというのはよく理解できた。簡単でおいしくてヘルシー。そして料理に華がある。「どんなに体に良くても、見た目においしそうでなければつまらないなあと思うんです」と彼女は言う。いろんな場所で人に食べてもらう料理を作っていた経験が、今生きているのだ。たとえ少しばかり遠回りになったとしても、懸命に生きてきた人の時間にはむだはない。応援したい東京の台所がまたひとつ増えた。

つづきはこちら

東京の台所 取材協力者募集

[PR]

PROFILE

大平一枝(おおだいら・かずえ)

長野県生まれ。大量生産、大量消費の社会からこぼれ落ちるもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『ジャンク・スタイル』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『信州おばあちゃんのおいしいお茶うけ』(誠文堂新光社)、『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『日曜日のアイデア帖~ちょっと昔の暮らしで楽しむ12か月』(ワニブックス)、『昭和ことば辞典』『かみさま』(ポプラ社)ほか多数。HP「暮らしの柄」 ■レンズ協力:SIGMA ART|18-35mm F1.8 DC HSM、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO HSM

&wの最新情報をチェック


&wの最新情報をチェック

Shopping