東京の台所

<128>29歳、振り出しから始める

  • 文・写真 大平一枝
  • 2016年9月28日

〈住人プロフィール〉

飲食店従業員・31歳(男性)
賃貸マンション・2LDK・JR山手線・高田馬場駅(新宿区)
築年数10年・入居1年・インテリアデザイナー(21歳・弟)との2人暮らし

    ◇

 眺めのいい都心の高層マンションに住んでいる。リビングにはマウンテンバイクや観葉植物がディスプレーされ、バルセロナチェアがエジソンライトに照らされていた。21歳と31歳の兄弟。裕福な暮らしだな、というのが俗な言い方だが、第一印象だ。

 Tシャツにデニムのラフなスタイルの住人が、「今日は弟が出張で不在なんです、すみません。彼の方がインテリアや料理に詳しいので語れると思うのですが」と申し訳なさそうに頭を下げた。

 父は都内で飲食店を数軒経営している。いわば兄弟ともに事業の後継者だ。住人は、調理師の免許を取得した後アメリカに留学。卒業後はかの地のレストランに就職し、29歳まで働いた。弟はインテリアの専門学校に進み、今はインテリアデザイナーをしている。彼はもともと料理が好きなうえ、働きながら父の命で寿司学校にも通い、腕を磨いた。

 ふたりとも父の後を継ぐという、ある意味、定められたレールの上を生きている。その息苦しさは若い頃にあったと住人は振り返る。

「継ぐつもりはどこかにありましたが、10年間アメリカから帰らなかったのは、心のどこかで逃げたかったから。スカイプで父と話していると、帰ってきてほしい気持ちがびしばし伝わってくる。それはもう親子だからわかる。でも踏ん切りが付かなかった。少なくともそのときは、自分の体を、父や日本から少しでも遠くに離しておいていたかったんですよね」

 帰国を決意したのは、「このままやっていてもゴールが見えたから」。腹を決め、父の店のとんかつ屋に入った。2年目の今もまだ調理の下ごしらえ担当で、毎日厨房に立っている。メインの料理はおろか、金の計算や経営に関する業務も一切ノータッチ。一日中立ちっぱなしで、夜はくたくたになる。

「今はひたすら体を使った労働をしています。31歳なんで、友だちは起業したり自分の人生に向かって着々と歩み出している。一方、日本で10年ブランクがある俺は、まだスタート地点に発ったばかり。焦りがないといったらうそになります。たとえば何か新しい事を始めようというとき、自分は背負うものがあってけして身軽ではないし、考えなくてはいけないことが人より多いかもしれない。でも今は、そんなふうに悩めることさえラッキーなことだと感じています」

 事業後継者という誰もがなれるわけではない立場を、自分の意思で選んだ。10年間の彷徨(ほうこう)が、青年を大きくしたと軽々しく言えるほど彼を知らない。だが、その横顔は誇りに満ちていて、迷いがない。

 帰国後、10歳下の弟と暮らし始めた。それが楽しくてしょうがないと顔をほころばせる。

「彼が小学生の頃に僕はアメリカに行ってしまったので、一緒に遊んだ記憶がないんですよね。それが今は一緒に酒を飲んで、ご飯作って、お互いの彼女を呼んでベランダでバーベキューしたり、将来のことを話したり。ホント、毎日楽しいっす」

 ふたりのときも食事はゆっくり楽しむ。両親がそうだったからだ。

「両親は酒飲みで、母がおかずを手早くじゃんじゃん作って、それをつまみにいつまでも飲んでた。米は酒の最後なんです。だからあまり食べられない。子どものぼくらもそう。友だちの家にいって初めて、ご飯とおかずは一緒に出すものなんだと知った。だからみんな、めしを3杯とか食べられるんだなあってわかりました」

 つまみが並ぶおしゃべりの絶えない長い食卓は彼の食生活の原点だ。さらにアメリカで気がついたことがある。

「日本ではおいしさを舌で感じますよね。繊細な味の違いを楽しむ。ところがアメリカではバーベキューをやっても半分焦げたのを平気で出すし、塩をかけただけとか、料理もいたってシンプル。そういうことよりみんなでワイワイ楽しく食べるのが“おいしい”ってことなんです。食事は、何を食べるか以上に、だれといかに楽しく食べるということが大事なんだと学びました。だからいまだに、もったいぶった料理とか、どっか苦手なんですよね」

 裕福な暮らしや約束された将来は、端からはなんの苦労もなく見えがちがだが、本人にしかわからない葛藤があり、ターニングポイントがあり、努力と知識と経験を積み重ねる一定の時間が必要だ。それにくわえて、資質も。彼のそれは、生まれ育った家庭の食卓で、無意識のうちに育まれた。その幸運を彼は今、明確に自覚している。

 明るく和やかな雰囲気の彼の経営する未来の店が私にもなんとなく想像できて、心が弾んだ。

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PROFILE

大平一枝(おおだいら・かずえ)

長野県生まれ。大量生産、大量消費の社会からこぼれ落ちるもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『ジャンク・スタイル』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『信州おばあちゃんのおいしいお茶うけ』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『日曜日のアイデア帖~ちょっと昔の暮らしで楽しむ12か月』(ワニブックス)、『昭和ことば辞典』『かみさま』(ポプラ社)ほか多数。HP「暮らしの柄」 ■レンズ協力:SIGMA ART|18-35mm F1.8 DC HSM、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO HSM

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