東京の台所

<129>築50年の文化住宅が教えてくれた暮らしの音

  • 文・写真 大平一枝
  • 2016年10月12日

〈住人プロフィール〉
会社員・33歳(女性)
賃貸文化住宅・2DK・中野区
築年数約50年・入居4年・夫(36歳・会社員)、長女(1歳)との3人暮らし

    ◇

 大学の軽音サークルの先輩と結婚。夫は植物を育てるのが趣味で、新居の条件は庭付きが必須だ。そこでたどりついたのが文化住宅である。今はなき阿佐ヶ谷住宅と同じ前川國男の設計で、現存する前川のテラスハウス(連棟式の低層住宅)建築としては都内ではここのみという貴重な物件である。

 以前、阿佐ヶ谷住宅に何度か訪れたことがある私は、一刻も早く取材に行かねばと意気込んだ。すでに築50年余。いつ立ち退きがあってもおかしくはない。案の定、住人は憂い顔だった。

「戦後にできた道路計画で、ここもゆくゆくはなくなるそうです。10年住んだ両隣も引っ越したまま、空き家になっていますから。昼も夜もすごく静かで寂しいです」

 敷地にはみかんの木をはじめ、住人らが代々植えてきた多様な植栽が青々と茂っている。庭付きメゾネットの棟が7つ。全部で20戸あり、一角に民間保育園が入っている。当初は企業が買い上げ、社宅に利用されたりもしたが、今は個人住宅として買った人がそのまま住んでいたり、賃貸に出されていることが多い。アメリカの郊外の住宅のような洒落た建物は、かつて著名な作家やカメラマン、女優からも愛された。

 今、住人の彼女は大きな喪失感の中にいるという。初めての出産、子育て、社会復帰を支えてくれた隣人が先月引っ越したばかりで“ご近所ロス”なのだと肩を落とした。

「40代のご夫婦で、越して間もなく、声をかけてくださって。奥さんは音楽家で、働きながら3人の子育てをされた、いわばお母さんの大先輩。乳児の娘が食べない、寝ないと悩んでいると相談にのってくれ、私が疲労と頭痛で床に伸びていると、見ていてあげるわと子どもを預かってくれました。3人のお子さんたちも妹のようにかわいがってくれて。大事なことをたくさん教えてもらい、たくさん与えてもらい、どれだけ救われたことか」

 親しくなるきっかけは、夫が庭で煙草を吸っていたときのこと。隣の主人も吸っていて、「おー、今日休み?」と話しかけられた。

「はい」

「じゃ、ちょっと飲む?」

 縁側に腰掛けてビールを飲んだ。そのうち「うちでご飯食べる?」とゆっくり付き合いが始まり、気づいたら週3回は互いの家を行き来する関係に。子どもを寝かしつけた頃合いを見計らって、お隣の奥さんがワインと湯飲みを持って現れることもしばしばだった。

「産気づいたとき、病院に送ってくれたのもお隣さんですし、仕事と子育ての両立に慣れず、疲れきっているような絶妙のタイミングで“今日、ご飯食べに来ない?”と声をかけてくれる。お隣さんがいなかったら、私達の子育ては全然違ったものになっていたと思います」

 密室の子育ての息苦しさはよくわかる。ささいな成長の遅れや体調の変化が気になり、くよくよ悩んでいるうちに、不安が増大したりするものだ。聞き役になってくれ、「大丈夫、間違ってないよ」と背中を押してくれる存在がいるといないのとでは大違いなのである。

 彼女は、神経質に離乳食の硬さや大きさもマニュアル通りに作っていたが、お隣に預けると結構大きな野菜ももぐもぐ食べていた。「あ、あれでいいんだ」と肩の力がすっと抜けた。

 夫が言う。

「そのかわり、夫婦げんかの声も子どもを叱る声も聞こえる。この住宅は、良くも悪くもプライバシーがないですが、僕らはそこが心地よかった。住まいを探すとき、最初は家の作りやインテリアや雰囲気なんかを気にしていましたが、子どもが生まれるとそんな見た目のことはどうでも良くなる。なによりコミュニケーションや環境がとても大事だなと実感しています」

 お兄ちゃんがジュース飲んだあ、早くご飯食べちゃいなさい、テレビ消しなさい! 兄弟げんかの原因も手に取るようにわかる。

 8月、隣人はいよいよ手狭になり、広い家に越していった。しばらく経つが、音がないのがとにかくこたえるらしい。

「会わない日でも、ガチャガチャ皿を洗う音、子どもの笑い声、夕餉(ゆうげ)の支度の音。そういう生活の音が聞こえてくるから、こちらも生活にハリも出るということに、いなくなってから気づきましたね」

 引っ越しの日。彼女は涙を見せず、できるだけ明るく振る舞った。

「だって、あちらにとったら新しい家に移るお祝いの日。私が泣いたりしたら申し訳ないですから。朝ごはんを用意してみんなに食べにきてもらいました。奥さんも明るく振る舞っていましたが、見送るときは“ちょっとうるっときちゃうね”っとしんみりなって」

 隣家の主人に言われた言葉が今も胸に残る。

「もうお隣さんじゃないけど、これで友達だね」

 付き合いは今も続いている。きっと一生続くのだろう。

 近隣住民の反対で保育園が建てられない、音が原因の隣人殺人……etc。東京でしばしばせちがらい話を耳にする。何を守り、何が大切と考え、何を排除するか。若い夫婦は一つの正解を持っている。教えてくれたのは10も年上の夫婦と3人の子どもたち。

 庭に出てみた。夫の育てた鉢植えや小さな畑がある。低いフェンス越しのすぐそこに隣の家の庭が。そう、これはたしかに目が合ったらビールを飲みたくなる。かつて酒を酌み交わした庭には雑草が生え、しんとしずまりかえっていた。人の気配のあたたかさを思う日曜昼下がりの文化住宅。若夫婦は最期を見届ける住人になるのだろうか──。

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PROFILE

大平一枝(おおだいら・かずえ)

長野県生まれ。大量生産、大量消費の社会からこぼれ落ちるもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『ジャンク・スタイル』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『信州おばあちゃんのおいしいお茶うけ』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『日曜日のアイデア帖~ちょっと昔の暮らしで楽しむ12か月』(ワニブックス)、『昭和ことば辞典』『かみさま』(ポプラ社)ほか多数。HP「暮らしの柄」 ■レンズ協力:SIGMA ART|18-35mm F1.8 DC HSM、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO HSM

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