東京の台所

<134>いちばんかんたんな幸せの味わい方

  • 文・写真 大平一枝
  • 2016年12月21日

〈住人プロフィール〉
 会社員(女性)・35歳
 戸建て賃貸・3LDK・京急線 新馬場駅(品川区)
 入居2年・築年数約50年
 夫(ガラス作家・35歳)との2人暮らし

    ◇

 高校の同級生だが、彼がこれほど料理上手とは知らなかったと、彼女は語る。曽祖父が設計して建て、祖母、叔父と住み継いできた品川の山手通り沿いの古い家に、彼は大学卒業後からひとりで住んでいる。祖母の嫁入り箪笥(たんす)、作り付けの下駄箱、紐付きの小さな換気扇。台所の端に洗濯機があり、客間と玄関の2カ所から行き来できる不思議な通路がある。

 「おもしろい間取りと作りの家だなあと思いました。古い家は寒いし、台所はつり戸棚や収納が全然なくて不便なところもあるけれど、小さな修理や改装の跡や、庭のみかんの木や植木の様子から、家族が楽しく過ごしてきた空気を感じます。長い間大事にされてきたこの家のあたたかみみたいなものが好きなんです」

 実家はマンション暮らしで、一軒家に住むのは初めてだ。彼女はこの家の暮らしをまるごとおもしろがっている。そもそも、ピカピカした便利なシステムキッチンに憧れる女性なら、彼はきっと伴侶に選んでいなかったんだろう。

 「初めて台所を見たときは、こんなにたくさんの調味料やだしをどうするの? と驚きました。使い切れるの? って。私は文京区でひとり暮らしをしていましたが、味付けは塩としょうゆがほとんど。つい茶色い炒め物ばかりになっちゃうんです。彼の料理を見て、味には香りやこく、うまみ、辛みなどがあり、それらを上手に使ったら、塩や砂糖はたくさんいらないんだなという当たり前のことに気づかされました」

 ガラス作家の彼は、日中は家で制作をしている。朝食は、会社員の彼女が先に食べ、出勤する。そのかわり、夕食は必ずふたりで時間を合わせるようにしている。

 料理から最後のお茶までだいたい2時間。ゆっくり食事を楽しむ。結婚2年とはいえ、毎日2時間卓を囲む夫婦はどれくらいいるんだろう。彼は野菜くずは煮込んでゴールデンスープに、月に1度はベーコンをくん製にして作り置きし、コーヒーは豆から自宅で焙煎する。ポン酢、だしの返しはもちろん、ネットで検索しながらミルクジャムを作ることもある。ふたりをつなげているのはもちろん心の絆なんだろうが、この料理も一役買っているのは間違いない。

 では、彼はどこで料理にめざめたのだろう?

 「ひとり暮らし時代、仲間を呼んで家飲みにするときにつまみを作ったのが最初です。大学の先輩なんかが家で宴会をしていて、だいたい料理のうまいところに人って集まるなあって思って。自分で作れば安いし、おいしいし、家で飲むのは気楽ですしね」

 なるほど、そこまではよくある話だ。でも、ポン酢やミルクジャムまでハマるとは、これいかに?

 「35歳の頃、相模湖にガラス作品を売るショップを開いたのです。ふじのアートヴィレッジという芸術家村みたいなのがあって。そこに移住してものづくりをしている人たちの暮らしや食生活からものすごく影響を受けました」

 有機肥料で育てた自作のトマトはそのまま食べるだけでもびっくりするほどおいしい。道の駅に売っている里芋もゆでて塩をつけるだけで、「いままで東京で食べていた里芋はなんだったんだ?」と思うくらいに味が濃くておいしかった。軒先で餅つきをしたり、みそやこんにゃくを作ったり。季節の行事や旬の恵みを大事にする。自分も、暮らしはこうありたいと思った。

 「だけど、実際自分は都会で生まれて、こんな山手線沿線に住んでいる。普通の生活のなかで幸せを感じたい。だったら移住するんじゃなくて、ふじのの人たちのような魂をもらって、こちらで同じ暮らしをできるんじゃないか? って思ったんです」

 普通の生活の中で感じられる小さな幸せ。そのひとつが料理だった。時間を掛けて煮込んだり、くん製にしたり、コーヒー豆を焙煎したり。簡単に手に入れることをやめ、手間ひまかけることで得られるおいしい喜びは無限にある。

 結婚してさらに喜びをシェアできる相棒ができたことも、後押しになっている。

 「彼女は喜び上手なんです。なんでもおいしいと言ってくれるので。料理って、毎日いちばん簡単に手に入れることのできる幸せだと思うんですよね。ひとり暮らし時代は、たまにくる飲み仲間を。今は毎日奥さんを喜ばせるためにやっているかな」

 あまりにもまっすぐな瞳で彼がそう言うので、私のほうがちょっぴり照れてしまった。傍らの彼女が言葉を添えた。

 「料理って、尊敬につながりますね。でもちょっとこだわりすぎかな……と、やり過ぎだなって思うときもたまにあって、そういうときは遠巻きに見ています。で、私はできあがったらおいしい!と言って食べます」

 夫婦ってそういうものだと思う。やりすぎてしまうところも含めて好きなんだろう。これが相性というやつだ。

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PROFILE

大平一枝(おおだいら・かずえ)

長野県生まれ。大量生産、大量消費の社会からこぼれ落ちるもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『ジャンク・スタイル』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『信州おばあちゃんのおいしいお茶うけ』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『日曜日のアイデア帖~ちょっと昔の暮らしで楽しむ12か月』(ワニブックス)、『昭和ことば辞典』『かみさま』(ポプラ社)ほか多数。HP「暮らしの柄」 ■レンズ協力:SIGMA ART|18-35mm F1.8 DC HSM、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO HSM

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