東京の台所

<10>ものは持たず、まるで旅の途中のように

  • 文・写真 大平一枝
  • 2013年3月27日
  

〈住人プロフィール〉

 大学講師(インド美術史、タミル語)、45歳。
 戸建て・2K・東京メトロ丸の内線 四谷三丁目駅(新宿区)
 入居9年・築年数60年以上 夫(大学講師)との2人暮らし

    ◇

 妻は日本人で、大学でインド美術史を教えている。インド人の夫は英語や哲学、密教を研究している。夫とはインドの留学時代に知りあった。そんなふたりの住み処は、古い二間の平屋である。ひと部屋は本と2人の机で埋まっている。

 だが、茶の間と台所は驚くほどがらんとしている。とにかく、ものを持つのが嫌いなのだという。

「私はインドに留学して以来ずっと今まで、どこに住んでも“仮の宿”の意識なんです。ずっとそこにいたいとか、マイホームを持ちたいという意識はゼロ。いつでも好きなときに移動できるよう、まるで旅人みたいに荷物はできるだけ少なくしていたいのです」

 と、妻は教えてくれた。

 現在の家は、彼女の父親が生まれ育った場所でもある。戦争で焼けて建て替えた後は長く叔母が住んでいた。

「叔母は謡(うたい)をやっていて、お能を見に行くなど芸術を愛でた人でした。器や着物が大好きで。だから家具も器もぜんぶ叔母の遺してくれたものをそのまま使っています。この家に来て私たちが買い足したのはお鍋1個とお玉1個くらいかな」

 幹線道路から1本入った路地にあり、玄関までの通路には草木が茂っている。その向こうに木造の平屋があり、新宿であることを忘れてしまいそうなほどのどかな佇まいをしている。

 ところでこの台所、味噌醤油、みりんの類が見当たらない。

「和食を作ったことがないのです。家ではぜんぶインド料理。醤油はいちおう持っているけど全然使わないから、賞味期限がいつかもわからないですね……」

 日本の大学院を卒業後、すぐインドへ留学した。そこで現地の人に料理の手ほどきを受けた。だから、「知っている料理がインド料理だけになっちゃったの」。夫は昼に勤務先の大学の学食で和食をいただく。朝晩はインド料理。長年、そのバランスがちょうどいいらしい。

 見渡しても、夫の実家の庭からとってきたという黒こしょうや、シナモン、クローブなどのスパイスを除けば、料理道具や器も含め、インドらしいものはない。

「ああ、うち、料理はインドオンリーだけど、インテリアや器はインド禁止なんです。だって夫がインド人なんだもの。それだけで十分濃いでしょ? インテリアくらいは普通にしていたいの(笑)」

 3畳ほどの台所に、木の椅子がぽつんとひとつある。

「インドの台所には、必ず小さな椅子があるんです。そこに主婦が座って豆や野菜の皮をむいたり、ご近所さんとおしゃべりしたりする。私もここに座って台所仕事をするのが好き。不思議と、仕事のアイデアがひらめいたりするから冷蔵庫の上にメモも置いてあるんですよ」

 何でも最低限しか持っていないが、「世界中探したってこんな便利な作業着はなかなかない」と彼女が絶賛する割烹着だけは、洗い替え用に2枚ある。

「袖口が閉まっていて水仕事はしやすいし、庭掃除しててもポケットがあるからスマホもゴミ袋も軍手もなんでも入る。暖かいし、下の服は汚れないし、洗ったらすぐ乾くし。私の家事の戦闘服です。日本に昔からあるものは、それなりにちゃんと愛される理由があるんですね。若い人が着ないの、もったいないと思う」

 平日は大学、家でも研究や執筆に忙しい彼女だが、糖尿病の夫のために肉料理をやめ、油をオリーブオイルに替えたり、おからをくわえるなどひと工夫。最近、夫の体重を12キロ減らすことに成功した。

 和食は作れないが、夫の健康を思う妻の気持ちに東西の違いはない。割烹着姿で、炊飯器でサフランライスを炊く妻が言う。

「ごめん。なんだか今日のご飯固くて失敗しちゃった」

「そんなことないよ。おいしいよ」

 緑茶をすすりながら、流ちょうな日本語で夫がほほえむ。40代と50代だが、私にはなんだか旅の途中の学生カップルのように見えるのであった。

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PROFILE

大平一枝(おおだいら・かずえ)

長野県生まれ。ライター。生活やライフスタイルををはじめ、人物ルポなども執筆。著書に『ジャンク・スタイル』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『日曜日のアイデア帖〜ちょっと昔の暮らしで楽しむ12か月』(ワニブックス)、『かみさま』(ポプラ社)、『スピリッツ・オブ・ジャンク・スタイル』『ジャンク・スタイル・キッチン』(風土社)ほか多数。共著に『母弁』(主婦と生活社)、『ジャンク・ウエア』(平凡社)など。 ホームぺージ「暮らしの柄」

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