東京の台所

<31>結婚1年、朝はふたりで「台所点前」

  • 文・写真 大平一枝
  • 2013年9月4日
  

〈住人プロフィール〉
 茶道家(男性)・31歳
 賃貸戸建て・6K・京急本線、立会川駅(品川区)
 入居1カ月・築年、昭和初期・妻(ヨガ講師・32歳)とのふたり暮らし

    ◇

 テラコッタタイルに、シンプルなステンレスのシンク。昭和初期の建物とは思えぬモダンな台所で、ふたりは朝食後のテーブルでお茶を点(た)てて飲むという。もてなしの茶席とは異なり、食後のコーヒーのような感覚で、茶ふるい缶(網のふるいの付いた茶道具)でササッと抹茶をふるい、その缶から直接、好きな茶碗に入れて点(た)てる。それを、シャレで「台所点前」と呼び、ひとときのふたりだけの時間を楽しむ。

 結婚1年、今年6月に、この家に越してきた。物件を見つけたのは妻だ。個性的な物件の仲介で知られる不動産ウェブサイト「東京R不動産」で、古い日本家屋が目に止まった。古いが、風呂や台所など水回りは最新式にリフォームされ、建具や建材は最高級のものが使われている。「内見だけでも行ってみようよ」と妻から誘われた。

 正月の初釜に、生徒さんを招けるような、炉のある畳の広い家が欲しい。そんな自分の思いを妻は知っていたのだ。だが、腰が引けていた。

「床の間や付け書院もあるこんな立派な家で茶を点てながら、晴耕雨読のように暮らすというのはまだ、遠いイメージでした。家賃が高いのもありますが、50代、60代になってからかなでいいかなと思っていたのです」

 家賃は、そのとき住んでいたコーポの2倍近い。若手茶道家とヨガ講師という結婚したてのふたりには何の確証もない。それでも、妻には迷いがなく、「なんとかなる」と思ったそうだ。迷う夫の背中を「大丈夫、大丈夫」とにこにこしながら押した。

 仮に申し込んでみると、すでに7件の先約があった。それでもオーナーとの面接の結果、無事借りられることになった。彼はふりかえる。

「自分のためだと思ったら絶対に決断できませんでした。ただ、ここで生徒さんがお茶の稽古(けいこ)をしている様子がありありと想像できたんです。あの人達に喜んでもらえるなら、みんなで喜び合える場所になるなら借りてみようかという気持ちが強かったです」

 台所や風呂、トイレはモダンな設備に作り変えられていた。持っていた家具は「この家に合わないから」とほとんど処分した。ただ、特に暑かったこの夏は、庭の手入れがこたえたらしい。草取りをしてもすぐに生えてきてしまう。

「これからも暑い寒いと、きっと住むのは大変なことも多いでしょう。僕らはこの家に試されているように感じます。でもお客様が増えて、この家でお茶の合宿を計画したり、仕事の幅が格段に広がりました。住まいを変えることで人生が変わることってあるんだなあとしみじみ実感しています」

 朝は広い家の掃除から始まる。茶人にとってはそれもまた稽古のひとつなので、苦はない。朝夕は、台所で夫婦で茶を点てて飲む。例の“台所手前”だ。ガラス瓶の米びつの横に、普段使いの茶道具が置かれている。米と同じくらい、ふたりにとっては欠かせぬものなのだろう。

 住人は「世界に通用する仕事を」と茶の道を選んだ。まだ走りだしたばかりかもしれない。夢を叶えるのは本人だが、それを後押しする特別な空間というものが世の中には存在するように思う。たんなる勘でしかないかもしれないが、この家にはたぶんその力が宿っている。奥さんにも、そんな説明のできない勘のようなものがはたらいたのではあるまいか。

 取材が終わり、カメラを片付けていると次の客が来た。「今日は夜にもお客様がいらっしゃるのです」と住人は嬉しそうに教えてくれた。そう、「いらっしゃい」と言われたら、もう1度行きたくなるような、人と人がつながりあいたくなるような家なのだ、ここは。

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PROFILE

大平一枝(おおだいら・かずえ)

長野県生まれ。ライター。生活やライフスタイルををはじめ、人物ルポなども執筆。著書に『ジャンク・スタイル』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『日曜日のアイデア帖〜ちょっと昔の暮らしで楽しむ12か月』(ワニブックス)、『かみさま』(ポプラ社)、『スピリッツ・オブ・ジャンク・スタイル』『ジャンク・スタイル・キッチン』(風土社)ほか多数。共著に『母弁』(主婦と生活社)、『ジャンク・ウエア』(平凡社)など。 ホームぺージ「暮らしの柄」

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