太陽のまちから

緊張と絶望 孤独の10代を越えた先に

  • 文 保坂展人
  • 2013年10月1日

「ぼくは二十歳だった。それが、人の一生でいちばん美しい年齢だなどと誰にも言わせまい」(ポール・ニザン『アデン アラビア』より)

 夜中に、長いこと身体の中に潜伏していた10代後半のころの記憶がよみがえり、苦悩と思索と試行錯誤の中にいた「あのとき」が目の前に現れることがあります。人はだれも若かった時代をまばゆいばかりの青春の記憶として飾りたがります。でも、私にとっては、苦しく、暗く、細い回廊を手探りで歩くような時期でした。

 自分が何者であるのか、自分はどこから来たのか、そしてどこへ向かって歩んでいくのか――。出口のない暗闇の中、ただひたすら考え続けていました。そして、喫茶店の片隅に座っては、2時間も3時間もかけて、なんとか数行の文章をつづるということを繰り返していました。安物のボールペンを握りしめ、筆圧の強い文字を刻みつけるようにノートに書きつけていたのです。

 それから40年の月日が流れ、予想もしなかった道を歩むことになりました。

 この間、「あのとき」を思い出したのはわずかな時間でした。それよりも、今日準備しなければならないことがあり、明日のために仕込まなければいけない仕事がありました。いまも、その只中です。

 けれども、50代後半になったからこそ、「あのとき」が問いかけているように感じることがあります。

 無限に見えた人生の時間の重さを嘲笑するかのようなふるまい。世間を知らないからこその陶酔……。きまりの悪さや後悔を抱えてもいました。

「あのとき」、私はひとりでした。ひとりであることを選び、ひとりであることに耐え、自力ではいあがろうともがいているような日々でした。非力を知っているからこそ、自分を鍛えるためにひとりでいようとしていたのかもしれません。

 そうした泥沼の中で「思考」は成長し、「言葉」は変容しました。まるで乳歯が永久歯に入れ代わるように、だれかの言葉に代わって自分の言葉らしきものを手に入れることができるようになりました。ボールペンは何本もインクが切れて、大学ノートはやがて何冊にもなりました。

 20代を過ぎて、私は教育雑誌や月刊誌に文章を書いて原稿料を得る生活に入ります。大きなチャンスを迎えたのは、23歳。当時、四六版だった月刊「宝島」で、いきなり巻頭100ページの特集を書くという依頼を受けたのです。

 私は、沖縄民謡の大家の父を持ち、コザ(現沖縄市)に生まれたロックミュージシャンの喜納昌吉さんを訪ね、彼の家に3カ月ほど住み込んで、東京、神戸、宮古島へともに旅をしながらドキュメントをしたためることにしました。書き上げた作品は「魂を起こす旅 喜納昌吉」(「宝島」1979年8月号)として書店に並びました。

 このとき、締め切り前の1週間足らずで、400字詰め原稿用紙で300枚を書き上げた記憶があります。5年前には数時間かけても3行しか書けなかった私は、ひとつの言葉を吟味し、文章をつなげては切り離し、そして流れを生みだしてゆくという技術をいつしか身につけていたのです。その後、少年少女向けの芸能誌で10年間、仕事を続けることになりました。

 文章だけではありません。衆院議員として永田町に身を置いてからは、借りものではなく、自分の頭で考えるという訓練が生きることになります。

 政治の世界は、日本でもっとも情報が交錯し、容量を超えた情報が奔流のように流れ去っていきます。その中から脈絡のない点と点をつなぎ、やがて大きな問題となるであろう小さな兆候を見つけだす。そのうえで調査や分析を加え、国会審議での質問を準備するのです。あたかも激しくうねる大海原にイカリを降ろすかのように、核心を見すえて問い続ける。その力は確かに、「あのとき」に由来するように思うのです。

 そして今、88万人の暮らしを預かる自治体の長としての仕事に向き合っています。取り組まなければならないいくつもの課題のひとつとして、生きにくさを抱える若者たちの支援を考えています。

 振り返れば、若いころの私は無手勝流に本を読み、深い洞窟に隠れるように多くの時間を過ごしていました。あのときは、それがどこにつながるのかが見えていたわけではありません。それでも誰かに依存することなく、孤独を抱きしめるようにして自分と向き合ってきた結果、気がつけば、いまにたどりついていたのです。とはいえ、自分の経験を絶対視したり、若者たちに教訓を垂れたりするつもりはありません。

 ただ、「あのとき」の緊張感、深い絶望、そして、かすかな希望を仰ぎ見るときの心臓の鼓動を忘れないでいたい、と思っています。

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PROFILE

保坂展人(ほさか・のぶと)

1955年、宮城県仙台市生まれ。世田谷区長。高校進学時の内申書をめぐり、16年間の「内申書裁判」をたたかう。教育ジャーナリストを経て、1996年より2009年まで衆議院議員を3期11年(03〜05年除く)務める。2011年4月より現職。『闘う区長』(集英社新書)ほか著書多数。

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