長らく高齢者医療に携わってきたが、私がはじめて認知症の人を診察したのは、今から約20年前、デイサービスを併設したクリニックに勤務したときだった。デイサービスには、毎日約四十人の高齢者がやってくる。そこにはさまざまな認知症の人も参加していた。

 たとえば、記憶力がほぼゼロの女性。ボランティアのグループがバイオリンの演奏会を開いてくれたので、終わったあとで「いかがでしたか」と訊ねると、「何が」と聞き返すので、「今の演奏会ですよ」と言うと、「あら、わたしは聞いてませんよ」と答えた。ほんの数分前なのに、完全に記憶から消えている。ある意味、その忘れっぷりは見事だった。

 ほかにも、怒り認知症、泣き認知症、多幸型、徘徊型、常時「岸壁の母」口ずさみ型など、ユニークと言えば語弊があるが、分類不能なほど多くのタイプを診察した。

 その後、在宅医療のクリニックに転じ、認知症の家族にも接するようになった。ある家では、息子が独り暮らしの父親の認知症を疑い、しきりに心配を募らせていた。火の不始末、被害妄想、変なものを食べないか、徘徊で行方不明にならないか等々。

 一方、父親は「大丈夫」「心配ない」「何とかなる」と、息子の不安を無視していたが、あまりしつこく言われると、「うるさい」と怒った。実は本人も不安なようだった。

 だれでも年を取るのははじめてなので、自分がどうなるかはわからない。認知症の症状は、老化現象と似ているので、疑心暗鬼に陥る人も多い。何かを忘れると、自分は認知症ではないかと心配になり、うまく思い出せると、大丈夫と安心する。思わぬ単純なミスをするとまた不安になり、いや年相応だと開き直ったりして、心は千々に乱れる。

 そこに家族の疑いの目が加わると、高齢者はプライドを傷つけられ、怒りや苛立ち、さらには衰えた自分への嘆きが入り交じり、ストレスは雪だるま式に膨れ上がる。すると脳はますます混乱し、勘ちがいや思い込みがひどくなって、家族はいっそう認知症の疑いを深めるという悪循環になる。

 

 今回、『老乱』という小説を書いたのは、多くの家族が陥る認知症介護の落とし穴を知ってもらうことで、少しはよりよい介護が実現できるのではと思ったからだ。

 その落とし穴とは、家族が無意識に、あるいはよかれと思って、高齢者を傷つけてしまう行為や言動である。

 たとえば、親の認知症を疑う家族がよくする質問。日付を聞いたり、前の晩のおかずを聞いたりするのはご法度だ。なぜなら、それは明らかに相手を馬鹿にした質問だからだ(ふつうの人にそんなことは聞かない)。認知症の人も、人格がすべて失われるわけではないので、そういう扱いをされていることは敏感に察知する。若い人には理解しがたいかもしれないが、高齢者にはわかっているけれど答えられないという状況がある。それをわからないと思われるのは、当人には屈辱だろう。

 孫が遊びに来たときも、「ぼくの名前わかる?」などと聞かせるのもNG。そんなときは、「太郎だよ。遊びに来たよ」と言えばいい。すると「太郎か。よく来たな」となって、親も喜ぶ。

 認知症は早期発見が大事とばかり、無理やり病院に連れて行こうとするのもよくない。

 病気とは思っていないのに、病人扱いされるの不愉快だし、認知症を疑われるとダメ人間扱いされているのが明らかで、当人のプライドはズタズタになる。

 認知症が心配な家族は、先の不安ばかりに気を取られ、案外、こういう当人の心理に気がつかない。疑われているほうもなかなか素直になれず、無理に大丈夫なふりをする。それで互いの心の溝が広がって、事態を悪化させてしまう。

 専門家はあまり公表しないが、今はまだ認知症を治す薬も、症状の進行を止める薬もない。あるのは症状の進行を遅くするという中途半端な薬だけだ。それもどの程度有効かは定かでない。であれば、大事なのは認知症患者への接し方ということになる。

 上手に介護している家族に共通しているのは、認知症の有無に関わらず、高齢者に対する尊重と、感謝の気持ちが強いことだ。尊重の念があれば、日付や前の晩のおかずを聞いたりはしないだろうし、予防的にあれこれ禁じたりもしないだろう。感謝の気持ちが強ければ、多少の混乱や粗相にも舌打ちなどせず、甲斐甲斐しく対応できるのではないか。

 そのような接し方をすれば、高齢者も快適だから、脳はよけいなストレスに悩まされずにすむ。自ずと介護者への感謝も湧くだろうから、たとえ認知症であっても、その状況を失うような行動には本能的に抑制がかかるはずだ。結果、介護者にとっての問題行動も減ることになる。

 そういう境地に至るのは簡単ではないが、小説ではきれいごとではない形で、ひとつの道筋を示せるのではないかと思い、本作を執筆した。キーワードは「恩返しの発想」。

 

 もうひとつ、認知症の問題を困難にしている背景として、世間の人が認知症をどうしようもない業病のように恐れていることが考えられる。認知症になれば人格が崩壊するとか、自分の存在が崩れてしまうとか、過度に否定的なイメージが流布されすぎている。だから、多くの人が拒否感情に振りまわされて、事態を悪化させてしまう。

 これまでの私の診療経験では、認知症になって嘆いたり悔やんだりしている人は、ほとんどいない。認知症のなりかけや、レビー小体型に見られるまだらボケでは嘆く人もいるが、それも症状が進めば消えてしまう。

 ある高齢の男性は、病気と死の恐怖におののいていたが、認知症が進むにつれ、何もわからなくなってきわめて平穏な心持ちになった。老いや衰えを嘆くこともないし、家族に世話をかける申し訳なさもなくなり、いっさいの煩いが消えたようだった。

 認知症は自然の恵みという見方もあり、むしろ老いてなお明晰なほうが、悲惨な現実がわかりすぎてつらいとも言える。

 いつまでも元気で活き活きとなどと考えていると、認知症は恐ろしいかもしれないが、老いればたいてい弱って衰えるのだから、認知症になってその現実を忘れるのも悪くはない。

 うまく発想の転換ができれば、認知症は決して怖くないはずである。

 

◆「老乱」とは

 医師でもある著者が描く迫力満点の認知症小説。老い衰える不安をかかえる老人、介護の負担でつぶれそうな家族、二つの視点からやっと見えてきた親と子の幸せとは?現実とリンクした新しい認知症介護の物語。医師、家族、認知症の本人のそれぞれの切実な“不都合な”真実を追いながら、最後にはひと筋の明るいあたたかさのある感動の長篇小説。朝日新聞出版。定価1836円(税込)。

 

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