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平和・ヒロシマ【聞きたかったこと〜被爆から72年〜】

水飲み息絶えた男児

写真:JR三原駅近くにある原爆死没者慰霊碑と中岡穂子さん。8月6日の追悼式への参列は欠かさない=三原市本町1丁目 拡大JR三原駅近くにある原爆死没者慰霊碑と中岡穂子さん。8月6日の追悼式への参列は欠かさない=三原市本町1丁目

写真:29歳のころの中岡さん。勤め先の病院に近い三原城跡で白衣姿で撮った。看護師として50年以上働いた=本人提供 拡大29歳のころの中岡さん。勤め先の病院に近い三原城跡で白衣姿で撮った。看護師として50年以上働いた=本人提供

 三原市 中岡穂子さん (87)

 原爆投下の日、中岡穂子(ひでこ)さんは16歳の看護婦見習いだった。救護班として三原市から駆けつけると、初めて見る広島の街は火の海だった。大やけどを負った2歳くらいの男児がいた。水を飲むと目の前で息を引き取った。「きのうのことも忘れてしまう年齢になったけど、あの日のことは忘れられんのよ」。87歳の今も記憶は鮮明だ。

    ■    □    ■

 現在の広島空港に近い本郷町(現三原市)の生まれ。「大きくなったらピアノを買ってやる」と言っていた父はニューギニアで戦死した。13歳のときのことだ。戦争はまだまだ続く、従軍看護婦になって父のかたきをとりたい。そう考えて1945年の春から病院に住み込んで働きながら看護婦学校に通っていた。

 8月6日朝、患者の牛乳を取りに外へ出ると「西の空が音もなくピカッと光った」。午後に学校に行くとすぐに呼び戻され、何も知らされぬまま、医師や警官と一緒にトラックの荷台に乗せられた。道すがら、「広島に新型爆弾が落ちた。けが人の救護に向かう」と聞かされた。反対方向から、やけどをした人をのせた車やリヤカーが次々とやってくる。全身真っ黒で男女の別もわからない。

 街は燃えていた。川に死人が重なり合い、線路の上で石炭を山積みにした貨車が燃えていた。「水をくれ」「助けて」の声があふれていたが、だれから救護すればいいのか迷うばかり。日暮れ前に、爆心地に近い基町(現広島市中区)に入った。その夜は水のない狭い用水路に横たわり、上からふたをして寝た。

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 翌日、救護班の移動中、土手の下から「ブー、ブー」という水を求める子どもの声がした。木陰に置かれた板の上に、2歳くらいの男児が寝かされていた。

 手で触ることのできないほどの大やけど。一緒にいた医師が「水をやりなさい」と言った。やけどの患者に水を飲ませてはいけないと聞いていたが、医師に「どうせ長くは生きられん。早く」と促され、水筒のふたを使って飲ませた。一瞬笑ったように見えた男児は、水筒を片付けているうちに息絶えた。気づくと、触るに触れなかったその子を抱いていた。「一滴の水を飲ませてもらうまで死ぬに死ねなかったのか」。泣けてしかたなかった。

 3日間、負傷者の手当てなどに追われた。学校の教室にできた救護所ではウジが床をはい回り、ハエが飛び回っている。真夏の太陽が照りつける練兵場で積み上げられた死体が焼かれていた。その手伝いもした。「あのときのにおいや煙、炎は忘れることができない」

 20歳で結婚。2児をもうけた。わが子の成長を喜びつつも、あの日、目の前で死んでいった男児のことが忘れられなかった。毎年、原爆の日になると「死んだあの子は、生きていればいくつになるだろう」と思い起こした。

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 被爆45年の節目に三原市原爆被害者之会が「原爆被爆体験記」を編んだ。130人を超える人が凄惨(せいさん)な記憶をつづり、当時61歳だった中岡さんも手記を残した。「こうして生きていけるのは、未(いま)だ使命があるのだと思います」と書いた。体験記はずっとベッドのわきに置き、ことあるごとに手にとって読み返す。

 昨年の夏、長野県の中学生たちに体験を語ってほしいと頼まれた。原爆の日の前日、生徒ら約20人を前に、16歳のときに広島で見たことや核兵器廃絶を願う思いを話した。

 熱心に耳を傾ける生徒たちを見ながら、「この子たちがもし戦争に行くことになったら」という思いがふと頭をかすめ、背筋が凍った。「戦争は私たちだけで十分。戦争で人が死ぬようなことが二度とあってはいけない」(北村哲朗)

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