平和・ヒロシマ【聞きたかったこと〜被爆から73年〜】
家族の名、何度も叫んだ
◇広島市安佐南区 八木義彦さん(84)
「生きとる間に、核はなくならないかもしれん」。8月6日、白島小学校(広島市中区)の児童たちに、八木義彦さん(84)=同市安佐南区=は焦りをにじませ、言った。原爆で父と3人の姉、弟を失った。自らの被爆体験を子どもたちに語り続ける、その原動力について尋ねた。
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あの日、白島国民学校(現・白島小)5年生だった八木さんは、校舎2階にいた。「登校日で、午前8時半から朝礼があった。友達と会うのが楽しみでね、早く学校に着いた」
爆心地から約1・5キロ。窓が青白く光った直後、爆風で校舎が一瞬でつぶれた。がれきに埋もれたが、隙間からのぞくかすかな光を頼りに屋根上までよじ登った。校庭で遊んでいたはずの児童は、校舎の隅にたたきつけられ、動かない。木はすべて焼け落ち、わずかに残った幹に火がくすぶっていた。
母は3年前に亡くなり、うどん製造業の父と3人の姉、弟、妹、叔父の8人暮らし。兄は中国に出征していた。学校から数百メートル西にあった自宅は、跡形もなかった。「誰か、誰か」。独りぼっちになりたくない。自宅や近くの工場にいたはずの家族の名前を何度も叫んだ。妹と叔父とは数日後に再会を果たしたが、父ら5人は骨すら見つからなかった。
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その後の生活も苦しかった。母の故郷、三田村(現安佐北区)や親戚の住む可部(同)で妹と叔父と暮らしたが、食糧難で食べ物は自分で探すしかなかった。セリやヨメナといった草、ヘビやカエル。何でも食べた。夜、畑でキュウリやナスに手を伸ばしたことも。そのたび、父のうどんの味を思い出した。
1946年に兄が復員し、翌年に広島市内の工場に就職。3人は兄の社宅に身を寄せた。少しずつ戻り始める日常。でも、親と登校する同級生を見るたび、寂しくなる。「なんで自分が」と、悔しくもあった。家族のいない卒業式や運動会は、苦痛だった。
家計を助けようと、中学2年で学校には行かなくなった。新聞配達や自転車店でのパンク修理、石炭運搬などの仕事を転々とした。「給料よりも、ご飯を食べさせてもらえる職場ばかり選んだね」。20歳の時に広島市内の乾物店に就職した。
死ぬほど苦労して働き続けないと、また食うや食わずの暮らしに戻るのではないか――。そんな思いが常にあり、過去を振り返ることはなかった。
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60歳で乾物店を定年退職し、時間に余裕ができたことで変わっていく。被爆者健康手帳を手に通っていた病院や、自治体を通じ、被爆証言を求められるように。「悲劇を繰り返さないためには、今こそ実体験を伝えていくしかない」と、語り部を始めた。
2009年には、被爆者仲間と「キャラバン隊」を結成し、車で全国を巡りながら核廃絶を訴えた。翌10年には、県内の反核団体の代表団に加わり、核不拡散条約(NPT)再検討会議があった米ニューヨークへ。核廃絶へ向けた署名集めをした。
今年8月、白島小の児童たちに、被爆当時の街並みや、被爆した人たちの写真をあえて紹介した。子どもたちが衝撃を受けるかもしれないと葛藤もあったが、「目で見て感じないと、『ピカドン』の恐怖は伝わらない」。
「戦後は青空教室というのがあってね。鉛筆も消しゴムもノートもない。先生の話だけを聴いて勉強するんだ」「焼け残った材木で枠を組み、わらを載せた家ばかりだった。それでも子どもは大喜びだったよ」。理解しやすいよう、現代との違いようを意識して話す。最後に、語りかけた。「世界から核兵器がなくなるまで、若い世代が『ヒロシマ』をずーっと伝えていかにゃいけんよ」(原田悠自)
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