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戦後70年 北海道(2)【遺書 ある球児の残像】

(上)特攻隊員となった剛腕投手

写真:第26回全国中等学校優勝野球大会の開幕戦に臨んだ北海の坪谷幸一投手=1940年8月12日、甲子園球場 拡大第26回全国中等学校優勝野球大会の開幕戦に臨んだ北海の坪谷幸一投手=1940年8月12日、甲子園球場

写真:北海中―松江商の延長十四回の激闘を物語るスコアボード。「心身鍛錬」「聖戦完遂」のスローガンも掲げられていた=1940年8月12日、甲子園球場 拡大北海中―松江商の延長十四回の激闘を物語るスコアボード。「心身鍛錬」「聖戦完遂」のスローガンも掲げられていた=1940年8月12日、甲子園球場

写真:(上)茨城県の基地で訓練機に乗る坪谷幸一投手(左)と小川昇さん=小川さん提供、(下)坪谷投手が恩師に宛てた手紙(レプリカ)=札幌市豊平区の北海高 拡大(上)茨城県の基地で訓練機に乗る坪谷幸一投手(左)と小川昇さん=小川さん提供、(下)坪谷投手が恩師に宛てた手紙(レプリカ)=札幌市豊平区の北海高

■出撃控え恩師へ「御身御大切に」

 4枚の便箋(びんせん)を、達筆の文字が埋めていった。

 1945(昭和20)年、春。鹿児島県の海軍航空隊第二国分基地から沖縄への出撃が決まった特攻隊員・坪谷幸一は、旧制北海中(現北海高)の野球部の恩師に宛ててペンを執った。

 「先生、喜こんで下さい。私も愈々(いよいよ)御役に立つ日が参りました」。語りかけるように、坪谷は書いた。「私が見事敵艦と刺違(さしちが)へたと御聞きになりましたならば、之がせめてもの御恩返しと何卆褒(なにとぞほ)めてやって下さいませ」「先生も御承知の如く、私達の出撃は再び帰ることなき出撃で有ます」

 机に向かう坪谷の目に窓越しの桜が映ったのだろうか。「春酣(たけな)はにして微風に散りゆく櫻花と共に散るは大和男子と生れし幸福を……」

     *

 その5年前の40(昭和15)年、坪谷は夏の甲子園球場のマウンドに立っていた。戦争で中断する前の全国中等学校優勝野球大会(現高校野球選手権大会)。スコアボードに「聖戦完遂」のスローガンも掲げられていた。北海は開幕戦で松江商(山陰代表)と対戦、延長十四回、2―3でサヨナラ負けを喫したが、身長約180センチの坪谷は「大会中有数の投手」(朝日新聞)として注目されていた。

 その天賦の才を見いだしたのは、後に「遺書」を受け取る北海の野球部長、飛沢栄三だった。「北海道の高校野球の父」と言われた名将は、夜間中学に通いながら職場のチームでプレーしていた坪谷を目にして北海への編入を勧め、坪谷は名門野球部で成長していくことになる。

 「重い球質の、すごいボールを投げるピッチャーでした。体も大きかったし、一人だけ別格の大人のように見えたね」。40年の甲子園出場を決めた道大会の決勝を札幌円山球場で観戦した北海道野球史家、白野仁(84)=札幌市中央区=は懐かしむ。

     *

 坪谷は東京六大学の法政大で野球を続けたが、43(昭和18)年秋、神宮外苑の大壮行会で送られる出陣学徒の一人となった。飛行訓練を積んだ茨城県の海軍基地で一緒だった小川昇(92)=埼玉県上尾市=は「穏やかな、優しい男だった。怒ったところは見たことがない」と、70余年前の姿を思い起こす。

 鹿児島の第二国分基地へと移っていた坪谷の死を、小川は同僚から聞いた。45年5月、沖縄への出撃準備をしていた坪谷の搭乗機に、離陸に失敗した援護機が激突したという。この事故で僚機3機の出撃は中止され、「それで仲間は命拾いをしたんだ」と小川は言う。

 坪谷の死の知らせを、遺書を受け取っていた飛沢はどんな思いで聞いたのか。自分が見込んだ才能を開花させる道を断ち切られた剛腕投手。戦後しばらくして、同僚教諭が飛沢に、思い出に残る北海の選手の名を尋ねたことがある。飛沢の答えは、こうだった。「坪谷はいい投手だった。もう一度、やらせてみたかった」

 遺書は長く人目に触れなかったが、88年、飛沢の遺品が整理された際に見つかった。終戦から43年を経て、戦争の断面を語りかけるように立ち現れた封書は、後世の若者たちの中に次の物語を生んでいくことになった。=敬称略

     ◇

 夏の高校野球が始まって100年。そして戦後70年。二つの節目に、甲子園のマウンドに立ち、その後、特攻隊員として死んだ球児の残像を追った。

■坪谷幸一・遺書(全文)

先生

余りにも永い間御無沙汰致し申訳も御座居ません。先生には其の後も益々御壮健にて御過ごしのことゝ存じます。

先生、喜こんで下さい。私も愈々御役に立つ日が参りました。来る○○日勇躍出撃致します。

一度御目にかゝって御恩返しの眞似ごとでもしてからと願って居りましたが、今はそれもならず、御世話になりどうしで御別れ致さねばなりません。

中学時代以来、今日に至る迄、深き慈みをうけし海山の御高恩、誠に感謝の言葉も御座居ません。

この世では何に一つ御恩返しらしきことも致さず、このまゝ御別れせねばならないことは何により心苦しく、申訳なく思ひますが、私が見事敵艦と刺違へたと御聞きになりましたならば、之がせめてもの御恩返しと何卆褒めてやって下さいませ。

先生も御承知の如く、私達の出撃は再び帰ることなき出撃で有ます。

この身一つを大君の御為、國の為に捧げ、悠久の大義に殉じ皇國と共に生きるは男子の本懐、誠之に過ぎるものは有ません。

春酣はにして微風に散りゆく櫻花と共に散るは大和男子と生れし幸福を今更の如く強く感じます。

今この大なる喜びを得られましたことは之ひとへに先生の御為と衷心より厚く厚く御礼申上げる次第で有ります。

先生、何卆今後共、御身を御大切に何時迄も何時迄も御幸福に生き長らえて下さいませ。

先生には弟共々、本当に御世話になりました。之にて御別れ致します。

末筆乍ら奥様並に野球部の皆様に何卆くれぐれも宜敷と御傳へ下さい。

最後に拙き一首

 七生報國一擧にかけて

 必中撃滅いざ沖縄へ

        (幸一)

先生御機嫌やう さようなら

 〈漢字、送りがな等は原文のまま〉

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