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土曜「考える」【北の文化】

アイヌ民族とトンボ玉(下) 越田賢一郎

写真: 拡大

写真:アイヌ民族の女性が身につけた胸飾りである「シトキ」(札幌国際大学所蔵) 拡大アイヌ民族の女性が身につけた胸飾りである「シトキ」(札幌国際大学所蔵)

写真:首飾りの「タマサイ」(札幌国際大学所蔵) 拡大首飾りの「タマサイ」(札幌国際大学所蔵)

●越田賢一郎 札幌国際大教授

■大陸と交易 入手に借財重ねる

 アイヌ民族の装身具の中でも、ひときわ目に付くタマサイ、シトキはよく知られています。タマサイは玉を連ねたものの意味で首飾り、シトキは円形の胸飾りを指す場合と、胸飾りのついた首飾り全体をいう場合があります。これらはアイヌ民族のイコロ(宝物)の一つで、儀式で正装する際に女性の胸に飾られていました。また、熊祭りの時に熊の首にかけられた記録も残っています。

  ◇ ◇ ◇

 首飾りのガラス玉は青、黒、白、黄、赤など色とりどりで、地となる玉の上に様々な模様を付けた「トンボ玉」もあります。ガラス玉は北海道で作られていなかったので、交易により手に入れる必要がありました。シトキやタマサイの形態は14、15世紀に成立しますが、その玉の多くは大陸から運ばれてきたと考えられています。

 江戸時代には、アイヌの人々と大陸との交易は山丹交易と呼ばれました。18世紀末に幕府の命を受け、北海道やサハリンなどを調査した最上徳内は、『蝦夷(えぞ)草紙』(1791年)の中で山丹交易についてふれています。蝦夷錦(中国の官服)や青玉(ガラス玉の一種)は山丹人(現在のアムール川下流域にいた少数民族)が大陸から持参したもので、アイヌはそれらを手に入れるために借財を重ねた。その代わりに多くの人々が連れて行かれ、残された人々が困っている。松前藩が督促して山丹交易品を買い上げるために、無理をして手に入れようとしたためであると、怒りを込めて書いています。

 山丹交易品は松前藩がアイヌの人々から手に入れて、幕府への献上品などにする一方、青玉はアイヌ社会にも浸透していました。古川古松軒の『東遊雑記』(1788年)には、道南部のアイヌ女性がシトキを大切に身につけ、決して売ってくれないと書かれています。刀、漆器類とともにアイヌの宝物として重要な位置を占めていたのでしょう。

 現在、ガラス玉の渡来先を成分分析から明らかにするプロジェクトが進んでおり、アイヌの人々が、広く大陸と交易関係を持っていた科学的な証拠も見つかると思われます。

  ◇ ◇ ◇

 18世紀ごろからは、日本国内でガラス玉が製作され、かんざし、緒締め、風鎮などに使われていました。場所請負商人は、アイヌが青玉を好んでいたため、ガラス玉を交易用に使用するようになり、直径3センチを超す大型の玉が増え、流通量も増えたと考えられますが、その流通形態ははっきりしていません。

 北海道教育大学札幌校の百瀬響教授のご教示によると、幕末期の『林家文書』にガラス玉の値段が出てきます。「土人諸品売物値段買上」(安政4〈1857〉年10月)には、玉一連(50粒)が米5俵と書かれています。また「役土人并(ならびに)雇土人給料書上」にアイヌ女性が春秋2期(1年)働いて米5〜9俵の給料になるとされていますので、米で換算すると、アイヌ女性の1年分の労賃でようやく玉一連を手に入れることができたことになります。

 今の価値からすれば、商人の横暴と思われる方がいるのも当然でしょう。ただ、アイヌ女性がこれほど苦労を重ね、手に入れようとした理由を考えてみると、アイヌ社会でガラス玉が持っていた特別な重要性が見えてくる気がします。アイヌ女性は玉をタマサイ、シトキなどの装身具に創り上げていきました。それらは宝物として貴重な扱いをされるとともに、アイヌ民族独自の装身具となっていったのです。

 タマサイやシトキは女性によって代々引き継がれていきました。ガラス玉の中に人々の涙や汗が秘められているからこそ、一層その美しさを増しているのでしょう。

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