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ニュースに迫る!連載まとめ読み【あるがまま魅せる 旭山動物園の50年】
(1)行動展示、生んだ14枚のスケッチ
■「命の本質見せたい」夜ごと議論/一時閉園危機も
深さ約3メートルのプールで、カバが優雅に水中を舞う。カバが近づくと、女性たちが「来た、来た!」と声をあげ、一緒に写真に納まろうとポーズを取っていた。
東京から来た30代のカップルは「カバのイメージと全然違う」「期待を裏切りませんね」と喜んだ。
ペンギンは水中トンネルの周りを飛ぶように高速で泳ぎ回り、アザラシは体を伸ばして垂直の円柱水槽を通り抜けていく。動物たちが躍動する姿に大人も子どもも歓声をあげる。
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日本最北の動物園、旭山動物園は半世紀前の1967年、旭川市東部の旭山(標高295メートル)を切りひらいてオープン。約15万平方メートルの敷地で約110種類の動物が飼育されている。
動物本来の生き生きとした姿を見せる手法で、国内外から見物客を呼び込む。入園者数は一時、年間300万人を超え、今も年間150万人以上が訪れる人気ぶりだ。
その道のりは苦難の連続だった。高度成長期に全国で動物園建設が推進され、旭川市でも計画が浮上。だが市議会は保守と革新の対立で紛糾し、動物園の事業費を盛り込んだ予算案は委員会で否決され、本会議で辛くも可決された。
開園後も娯楽の多様化などで入園者数は伸び悩む。
理想の動物園とは――。当時、飼育係長だった小菅正夫・前園長(68)は、後の絵本作家、あべ弘士さん(68)ら飼育員2人、新人獣医師の坂東元・現園長(55)と夜ごと語り合った。わき出た動物舎のアイデアを、あべさんがカレンダーやチラシの裏面に描いていった。「14枚のスケッチ」。後にそう呼ばれることになる。
94年にはエキノコックス症で飼育動物が死に一時休園。入園者は激減し、閉園が現実味を帯びた。
だがその年、菅原功一市長(当時)が誕生すると、潮目が変わった。翌95年、園長に就いた小菅さんが菅原市長を前に約2時間にわたり、「動物園は子どもたちが命の本質を感じ取れる場所」と説いた。1億円の施設整備費が認められた。
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小菅さんたちは「スケッチ」の実現に動き出した。
まず97年、動物と触れ合える「こども牧場」と、水鳥が自由に飛び回る巨大な鳥かごの中に見物客が入れる「ととりの村」をつくった。翌98年には、客の頭上にヒョウが寝そべる「もうじゅう館」ができた。
「動物本来の動きをありのまま見せれば、客も楽しい」。4人が導き出した手法は、小菅さんにより「行動展示」と名付けられた。
ぺんぎん館、ほっきょくぐま館、あざらし館、きりん舎・かば館……。その後も入園者増で潤った自前の財源などを活用し、「行動展示」の施設を次々に建設していった。
ただ斬新な分、建設は難航した。動物の専門家などから「ペンギンが水中トンネルに激突する」「(高さ17メートルの)空中放飼場からオランウータンが落ちるのでは」と心配された。
それでも、すべての施設の設計に関わる坂東さんには自信があった。「これで死ぬようなら、野生の環境で生き残れていない」
開園当初から議論を積み重ねて練り上げてきたからこそ、理想を貫く覚悟は揺るがなかった。
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旭山動物園が今夏、開園から50年を迎える。「行動展示」の先駆けとなった動物園はどうやってできたのか。その歩みを振り返り、その未来像を探る。
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