土曜「聞く・語る」【北の文化】
サハリンを忘れない 後藤悠樹
●後藤悠樹 写真家
■残留日本人の人生の記憶 預かった
「サハリンの残留日本人」と聞いて今、どれだけの人がピンとくるだろうか。かれらは1945年の敗戦以降、様々な理由で樺太(サハリン)に留められ、冷戦後の1990年代に入るまで日本への帰国を阻まれた邦人のことであり、その数は千数百人にのぼるという。また、当時併合していた朝鮮半島出身のサハリン残留者は約2万3千人とも言われ、戦後この島で、ソ連各地からの移民とともに非常に複雑な背景を持つ社会を形成してきた。
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私が初めてサハリンを訪れたのは2006年4月だった。当時写真学校の学生だった私は、友人の影響で海外に興味を持ち、訪問先を検討していた。その際の条件は、(1)日本と関係がある(2)情報が少ない(3)雪国、というもので、世界地図を眺めた時、不意にこの島が目に飛び込んできた。そして、その歴史を調べていくうちに残留日本人の存在を知った。
初めて訪れたサハリンは、ソ連時代に通じるような生活感が強く感じられ、宗谷岬から約43キロとわずかな距離なのに、日本とは全く異なる世界が広がっていたことに、とても戸惑った。そんな中、現地の日本人会に紹介してもらった“残留日本人”は、流暢な日本語を話し、初対面にも関わらず、まるで自分の孫のように私を自宅へと温かく迎え入れてくれた。この出会いがきっかけとなり、その後も折を見ては2カ月ほどの長期滞在を繰り返し、この島に生きる人々を見つめてきた。
◇ ◇ ◇
戦後、親類がソ連当局に誤認逮捕され、当時13歳だった松崎節子さんは、戦争に負けた日本の責任を一人その小さな肩に背負いながら定年まで建築現場の作業員として働き通した。日本への永住帰国を望みながら日本人である証明が出来ず、稚内に一番近いシェブーニナという小さな村に暮らし続ける渡辺ハツエさん。彼女はいつも宗谷地方の天気予報をラジオで聞いている。そして、サハリン西部の小さな町に住んでいた石井ヨシさん。福岡で生まれた彼女は、私がお土産に持参した日本の新聞や雑誌をいつも深夜まで読みふけっていた。いつか語ってくれた「この町の土となります」という言葉通り、彼女は2年前に亡くなった。知り合った方々は80歳前後と高齢で、久しぶりに訪ねる際には、祈るような気持ちで連絡を取っていた。そうして約10年にわたり、日本領だった南サハリン各地を訪ね歩き、出会った人々から伺った話と写真をまとめた本をこの3月に上梓した。
サハリン残留者は、「一時帰国」の形で再び日本の土を踏むまで、気の遠くなるような歳月を過ごさざるを得なかったが、今日まで生き、家庭を築いてきた、とても強い存在である。そうでなければ、絶望やアルコール、暴力に摘み取られ早々に亡くなっていただろう。それでも取材中、「自分の人生とは何だったのだろう。もし日本に帰っていたら……」と、自問する姿を何度も目にした。私はその都度、「それでもこうして会えて、よかったと思います」と、答えにならない返事を繰り返してきた。
サハリンのみなさんには改めて、感謝したい。出会ってくれて、ありがとう。人生の記憶という大切なものを預からせてくれてありがとう、と。一般的には、ほとんど忘れ去られたように思えるこの島だが、樺太からサハリンへ生きる一片の人生が、私たちの暮らしと、どこかでともにあることを願う。私はサハリンを忘れない。
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ごとう・はるき 写真家 1985年、大阪生まれ。広告写真家のアシスタントを経て、現在写真館勤務。日本サハリン協会会員。著書「サハリンを忘れない」はDU BOOKS刊。税込み2700円。
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