ヘルプ
マイページ
縄文杉の50年【第1部 森を守る】
1966 大伐採時代
屋久島の山中、標高660メートルの森にかつて「都会」があった。食料品店や郵便局、診療所などが通りに並び、夜になると、各家庭の電灯が暗い森を照らした。大正末期から半世紀近くの間、屋久杉伐採の拠点だった小杉谷集落だ。
縄文杉への登山道を進むと、集落にあった学校跡に出会う。子どもたちが走って遊び、踏み固めたためか、樹木は今も伸びない。苔(こけ)むした校庭跡の上には、広々とした空が見える。
集落のあった小杉谷周辺には「屋久島一の美林」があった。南東に開けた谷には温かな陽光が差し、北と南に連なる稜線(りょう・せん)が台風や季節風から森を守る。好条件が縄文杉や大王杉など、樹齢数千年の銘木を育んだ。
美林の運命を大きく変えたのが、明治期の地租改正だ。島の森林の8割が国有林化され、島民は下げ戻しを求めて争ったが、1920年に敗訴。国は大規模伐採に向けて動き出す。
一方、島民の生活を安定させるために、翌年に「屋久島憲法」と呼ばれる屋久島国有林経営の大綱を制定。7千ヘクタールを住民が使える共有林とし、伐採事業で島民を優先的に雇用することなどを決めた。
23年には島東部を流れる安房川に沿って、木材を港まで運ぶ安房森林鉄道が開通。沿線の小杉谷山中に営林署の事業所が開かれ、作業員や家族が暮らす集落が生まれた。
当初、樹齢千年を超す屋久杉の生立木(せい・りゅう・ぼく)は伐採が禁止された。ところが、第2次世界大戦時には禁が解かれ、軍用材の臨時伐採が始まる。戦後も朝鮮戦争の特需により、伐採が続いた。
続く高度経済成長期に入ると、木材の供給不足や価格の高騰が社会問題になる。新聞各社は「国有林の伐採制限の緩和を」「国有林は増伐を」などと社説で訴えた。
増産を迫られた林野庁は57年、屋久杉の生立木の伐採を正式に解禁する。チェーンソーも導入され、山の斜面を丸裸にする皆伐方式によって、原生林を本格的に切り始めた。66年、屋久島の国有林の伐採量は、18万立方メートルとピークに達した。
60年代、集落にある小杉谷荘の管理人だった両親と暮らしていた若松昭男(63)は、こう振り返る。
「谷周辺の森は丸刈りのように切られ、ハゲ山だった。でも、当時は経済優先で、誰も問題にしなかった」
小杉谷中学時代、仲間と山登りをした。伐採の進んだ山に木陰は少なく、強い日差しで大汗をかいた。
現場の作業員も必死だった。「トロ乗り」と呼ばれる木材の運搬要員だった鎌田利夫(82)は、トロッコに屋久杉を満載して急な軌道を港まで下った。
「トロッコを2連結するとブレーキの利きが悪くて怖かった。でも、営林署からは『もっと出せ、もっと出せ』とせかされて、やるしかなかった」
その分、賃金は良かった。出来高制で、多い月は13万円。当時のサラリーマンの平均の約3倍だ。休日に町に出ると、一晩で2万円分、飲んだ。
小杉谷集落も繁栄した。53年、安房川に発電所が完成するといち早く電気が通じ、最盛期の人口は540人に達した。小中学校には約150人が通っていた。
しかし、裕福な集落は、小杉谷事業所の閉鎖とともに70年に閉じられる。半世紀に及ぶ伐採で、高価な屋久杉は切り尽くされた。作業員たちは島内の別の地域に移る。屋久杉に加え、パルプ材の原料となる広葉樹を切り続けた。(敬称略)
ここから広告です
PR注目情報
県内のニュース、社外の方のコラム、ニュースを掘り下げた企画記事などを掲載します。電子メールでご意見や投稿をどうぞ。
メールはこちらから
朝日新聞鹿児島総局
別ウインドウで開きます