企画特集 3
JR東海道線二宮駅。ホームの屋根の梁(はり)には、今も黒ずんだ弾痕が残る。
終戦の10日前。1945年8月5日正午ごろ、米軍の機銃掃射を受けた痕だ。町の記録では、駅舎などで5人が亡くなっている。その中に、二宮に疎開していた娘を迎えにきた父親がいた。残された13歳の娘が、後に「ガラスのうさぎ」を書く高木(旧姓江井)敏子さん(80)だった。
「海の方から、敵の戦闘機が編隊を組んでやってきて、駅の上空を旋回し始めたんです」
二宮駅南口で写真店を営む野谷寿男さん(89)は、当時22歳。空襲を知らせるため、駅から150メートルほど離れた火の見やぐらに駆け上り、夢中で半鐘をたたいた。戦闘機は急降下して機銃掃射を繰り返す。駅に停車していた30両ほどの貨車を狙ったように見えた。
まもなく、1機が駅を離れ、約25メートルの高さのやぐらにいた自分目がけて撃ってきた。弾は1発。やぐらの鉄柵がはじき返したが、操縦席の米兵の顔が紅潮し、鋭く光った目まで見えた。
「駅を襲った後の余り弾だったと思う。もし何発も残っていたら、今私はここにはいないでしょう」
駅舎からは、白い煙が3カ所ほど立ち上った。待合室に駆けつけると、うめき声が響き、大人や子ども十数人が折り重なって倒れていた。
耳の障害で兵役を免れていた。町に残る数少ない男手として、けが人をリヤカーに乗せ、近くの医院まで何度も往復した。
二宮駅の駅長の娘だった高木(旧姓樫尾)恒子さん(79)は、海岸近くに借りていた家に母と妹といた。バリバリと耳をつんざく銃撃音に、ちゃぶ台の下で震えていた。
外から「駅がやられた」という人の声が聞こえる。駅構内にある駅長官舎に急いで向かうと、土壁が崩れてもうもうと煙が上がっていた。畳、屋根、鏡台、オルガンにも3発……。8畳2間の官舎の弾の跡を数えると、130を超し、夜は天井から瞬く星が見えた。
数日後、恒子さんは父親に呼ばれた。「空襲の直前、お前の友達のお父さんが駅長室に来ていてね……」
その「友達」が、春に卒業した二宮小(国民学校)時代に同級生だった高木敏子さんだった。恒子さんの父親は昼食のために、ほんの数分前に駅長室を出て防空壕に入り、難を逃れた。
「戦争中の生死は紙一重。私が彼女だったかもしれなかった」
◇
高木敏子さんは東京の下町、両国で生まれた。45年3月の東京大空襲で母と2人の妹が行方不明になり、自宅のガラス工場の焼け跡からは、溶けたうさぎの置物しか出てこなかった。8月には父まで、二宮の機銃掃射で失った。
その自らの戦争体験をつづった「ガラスのうさぎ」は、発刊35年で240万部のロングセラーになった。舞台となった二宮町で、改めて著書に込められた思いをたどり、戦禍を語り継ぐ動きを追った。
(この連載は、足立朋子が担当します)
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