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今週のこの人【この人】
木村和也さん(熊本放送アナウンサー)
本屋に入った時、熱心に立ち読みしている婦人がいた。木村さんの本だった。私も「再起可能」というインパクトのある題名にひかれて買ってしまった。
実際に会ってみると、正直、とても後遺症があるようには見えなかった。
「ちょっと足首を曲げてみて」。言われるままに足首を90度に曲げた。木村さんは「俺は精いっぱいやってこれくらいなんだ」と言いながら足首をわずかに動かした。「障害を持ってみないとわからないこともあるけど、そればっかり見せてもしょうがない」。情に訴えず、淡々と語る。
趣味の釣りでは、渓流の道具を買って間もなく事故に遭った。「岩を登れるようになって渓流釣りをするのが次の目標」という。
「物事を前向きにとらえることで生きる様も変わってくる」。木村さんが取材の終わりに語った言葉だ。この言葉を思い出しては、励まされている。
(明楽 麻子)
事故は、いつでしたか
01年3月14日、番組取材でパラグライダーを初体験し、気持ち良く飛んでいたら、着地前に突風が吹いて約5メートルの高さから落ちた。腰の骨を圧迫骨折、脊髄(せき・ずい)を損傷した。両足を全く動かせなかった。
入社して10年が過ぎ、この仕事でやっていく自信がついてきた頃。普通に生活していたのに、突然、両足が動かないという現実。すべてを失うのかと思うと怖かった。
気持ちの変化は?
主治医から「運は運の方からやって来るんじゃない。自分からつかみ取ることが大切だ」と言われた。親父(おや・じ)から「痛い、つらいという言葉は二度と口にするな。代われるものなら代わってやりたい。だが、お前自身が強くならないと、けがとは闘えない」と言われたのも大きい。人に痛みを伝えても何もならない、前向きに行こうと考えた。
長い入院でしたね
8カ月。事故直後は全く足の感覚が無かったのが、入院後約1週間して指を触られたのがわかった。「体の線がつながったなあ」と感じてね。リハビリは、最初は足を持ってもらって曲げることから。靴下を脱ぎ着するのも、まず片足をももの上に乗せられるように足を曲げる訓練をする。右足ができたら、今度は左足。力を込めようとしてもなかなか力が入らない。装具をつけずに片足を踏み出せたのは4カ月過ぎてから。
そして、再起へ
熊本に来て、いろんな出会いがあって、仕事もやりがいがあった。復職できなければ東京に帰ることになる。つかみかけたチャンスを奪われたくなかった。なぜ足が動かないのかと焦ったが、周りの励ましで前向きに取り組めた。
今も足に痛みとしびれが残っています。長時間立っていると、きつい。足首をあまり曲げられず、歩く時にうまく足を振り下ろすのが難しくてつまずきやすい。週に1回程度リハビリに通っています。
出版のきっかけは?
アナウンサーに戻った時、主治医やリハビリの先生から奇跡的な復活って言われた。歩ける可能性は1%に満たなかったと。体験を体の機能回復に努めている人たちに伝えてと言われて、日記を読み返した。本を書くことで自分の心の整理にもつながった。
出版後、受験生とか就職活動中の人から「一度や二度のつまずきは苦にしません」とか手紙が来てね。本を出すことはおこがましいと思っていたけれど、今は出してよかったと思っています。
最近、バリアフリーという言葉をよく聞きます
バリアフリーってハードじゃない。例えば、エレベーターのない店で、「階段しかなくて、ごめんなさい」と言われるより、「おんぶして上がるから、また来て下さい」と言われる方がうれしい。自分の体を受け入れているから、抱えられることは決して恥ずかしくない。まず気持ちが大事。そうでないと、いくら施設を造っても無用の長物になりかねない。
今、伝えたいことは?
事故に遭って、自分のように車いすを手放せるようになる人も、ならない人もいる。それぞれ状況は異なるし、限界もある。ただ、前向きに取り組むことで、見えない可能性は何倍にもできる。自分自身、後ろ向きなことからは何も得ることはないと言い聞かせていた。これは病気、事故、試練、何にでも言えることだと思う。
きむら・かずや 熊本放送アナウンサー。東京都国立市出身。91年成蹊大学工学部経営工学科卒業。同4月、熊本放送に入社。趣味は釣りと陶芸、料理。01年3月に番組取材中の事故で脊髄を損傷、両下肢麻痺(まひ)になったが、現在、買い物や食事に出かけられるほどに、自力で歩けるようになった。約8カ月入院し、職場復帰するまでの日記をつづった本「再起可能」を昨年出版。発行部数は県内で約1万部。
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