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うちのイチ押し【火の国をゆく】

東陽村の河俣塗

写真:昭和初期のものと思われる河俣塗=宮原町宮原村で 拡大昭和初期のものと思われる河俣塗=宮原町宮原村で

  東陽村中心部から南へ約5キロ。五木村へ抜ける県道沿いに集落が点在する河俣地区。江戸時代から昭和初期にかけて、職人たちが春慶塗を主とする重箱や膳(ぜん)など多数の「河俣(かわまた)塗」を生み出した。だが、昭和初期に途絶えたという。近年、河俣塗の中心人物だった冨岡仲平に関する古文書が見つかったことで、「河俣塗の里」の謎が少しずつ解き明かされている。  (花房篤司)

  河俣地区の入り口にある鶴下橋を渡り、坂道を150メートルほど上ると、村の文化活動や交流の場である「黒木止善館」に着く。

  黒木止善(1836−1911年)は同地区最後の庄屋で、江戸時代末に寺子屋を開き、村人に論語や習字を教え、地元の文化や産業の育成に努めたとされる。河俣塗の振興に努め、自らも指し物や塗り物を作ったという。

  河俣塗は、1791(寛政3)年に、初代の冨岡仲平が藩の「指し物御用」に従事したのが始まりという。八代郡誌には「製品堅牢にして膳、重箱、惣輪台など、春慶塗の技術精巧を極む」とあり、品質には定評があった。だが、昭和初期の1930年代に最後の継承者が突然海外移住し、河俣塗は途絶えたとされる。

  近くに住む、止善の孫に当たる後本勧(すすむ)さん(88)は「祖父の作ったものをはじめ、河俣塗が生家にたくさんあり、地区の祝い事には、膳などを貸し出していた」と振り返る。

  河俣塗に詳しい八代市立博物館の鳥津亮二学芸員(27)によると、4代目仲平らが書いた「万物日記覚」の中に、「天保7(1836)年冨岡仲平外15名起請文(きしょうもん)」が記録されていた。「春慶塗の技術を村外へ出さない。後代まで使えるいいものを入念につくる」など、7項目の誓約が連名で記されていたという。一門が、一致団結して製作に当たっていた様子がうかがえる。

  また、膳の底部に作者の墨印があることや、漆の調合なども分かってきた。鳥津さんは「河俣地区は、当時かなり広範囲と交流していたはず」とみている。「当時の産業などの様子を明らかにしていきたい」

  宮原町の家具工芸家、古島隆さん(56)も河俣塗の研究を進める一人。数年前、妻の実家で、祝いの膳や酒器に「肥後八代 河俣 仲平」などの印があるのに気づいた。興味を覚え、博物館と連絡を取り合いながら、所蔵者のリスト作りや記録・保存研究を続けてきた。

  「県南一帯の民家には相当多くの河俣塗が残っているはず」と話す。

  8年前、次世代に止善の顕彰をしていこうと、黒木家生家の「止善館」を地域の学習の場として管理する協力会が発足した。館には今も、多くの河俣塗の膳や酒器のほか、古文書が展示・保存されている。

  「止善館」の寺子屋で学び、ドイツ留学の後、日本細菌学の基礎を打ち立てた緒方正規もこの地区の出身だ。止善館からわずか200メートル先に生家があり、庭には、遺徳をたたえる誕生地碑が建立されている。

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