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2012年04月03日
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沖縄40年 <爆音なき教室 志半ば>

写真: 拡大

写真:普天間第二小の屋上で、岡田克也副総理に騒音被害を説明する知念春美校長=3月17日、沖縄県宜野湾市 拡大普天間第二小の屋上で、岡田克也副総理に騒音被害を説明する知念春美校長=3月17日、沖縄県宜野湾市

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に接する普天間第二小学校の知念春美校長(60)が31日、教員生活を終えた。同小の勤務は通算12年。政治家視察のたび「一日も早く基地撤去を」と訴えたが、道筋が見えないまま学校を後にした。

 「先生、お疲れさまでした」。春休みの23日、校長室で児童4人がお菓子を贈った。直後、ゴゴゴッと爆音が響き、満面の笑みが消えた。「最後までそっとしておいてくれませんね」

 本土復帰後の1974年に教員に。普天間第二小には88年に初めて赴任した。受け持った学級は基地に一番近い校舎の2階。ヘリが頭上を飛ぶたび、窓が震えた。声がいつもかれた。

 子どもたちの様子も気になった。掃除でいすを机にのせる音が激しい。ひどい騒音のためか、会話は怒鳴っているように聞こえた。「爆音に慣れるような環境が、子どもに良いはずがない」

 2002年、今度は教頭で赴任。普天間飛行場は96年に県内移設を条件に返還合意されていたが、何も変わっていなかった。そして04年8月13日、基地のほぼ反対側の沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落。「ここは日本なのか」。見捨てられた気持ちになった。

 3度目の赴任で08年から校長に。「この学校で定年を迎えるのは運命かもしれない」。米軍機が見えるたび、時刻や機種をメモした。視察に訪れる国会議員や政府関係者らに、このメモを見せ「子どもたちに静かな環境を」と訴えた。

 もどかしさも募った。

 「なぜこんな場所に学校を造ったのか」。ある国会議員に真顔で尋ねられ、力が抜けたこともある。

 第二小は69年創立。米統治下で教育予算は限られ、普天間飛行場は今よりも広く、学校の立地を選べる状況ではなかった。復帰後も基地は残り、周辺で人々がひしめくように暮らす。もともと、市内に基地から離れた安全な場所はない。そんなことも伝わっていないのか、と。

 本土復帰の時は20歳の大学生。「基地は米軍が好き勝手に置いているのだから、日本に復帰すれば基地はいずれなくなる」と漠然と信じていた。09年の政権交代で当時の鳩山由紀夫首相は、普天間の移設先を「最低でも県外」と主張。ところが、移設先は結局、自公政権時と同じ名護市辺野古へと戻ってしまった。

 復帰40年の今年も、2月18日に田中直紀防衛相を、3月17日には岡田克也副総理を校舎屋上に案内した。でも政府の立場は変わらない。「本校を見て『県内に基地をつくるのは無理』と思ってほしいのに、政治家は『県内移設で解決する』と言う。沖縄に基地を置いておきたいのは、米国ではなく日本だったんですね」

 30日夕、学校を去る前、米や塩を学校敷地の四隅に供えて御願(拝み)をした。本来は家の安全を願う沖縄の風習。ひとりで手を合わせ、目を閉じた。

 「これからも、子どもたち、職員たちをお守りください。いつか、ここが静かなごく普通の学校になりますように」

■知念春美校長と沖縄の歩み

1952年 那覇市首里で生まれる
 70年 琉球大学進学
 72年 沖縄が本土復帰
 74年 大学卒業、教員に
 81年 結婚。宜野湾市へ転居
 88年 普天間第二小に初赴任(5年間)
 96年 日米が普天間飛行場の返還に合意
2002年 普天間第二小の教頭に赴任(3年間)
 04年 沖縄国際大に米軍ヘリが墜落
 08年 普天間第二小の校長に赴任(4年間)
 12年 退職

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