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【2004年6月13日朝刊社会面】

 「あ、負けました」

 羽生善治(33)が深く一礼した。山形県天童市での名人戦第6局。挑戦者の森内俊之(33)が11日夜、4勝2敗で羽生から名人位を奪った。同い年の好敵手を初めて越えた。

 今期名人戦の水面下で展開されていたのは、時間をめぐる心理戦だった。

 □  ■

 プロの公式対局は時間に束縛された戦いだ。1分未満を切り捨てて時間を累計し、持ち時間が残り1分になると、1手59秒以内で指さなければ、即負けになる。

 「50秒、1、2、3……」

 秒を読む記録係の声に追われながら、瞬時の判断を要求される。

 「59秒の間に、棋士はトランス状態(非日常の意識)になる」

 極限状況での集中力の高揚をそう表現するのは、羽生らの次の世代で、持ち時間を使いきることの多い七段の行方尚史(30)だ。

 脳の中にイメージされた将棋盤の上を駒が動くスピードが速くなる。絶妙の手順が十数手、光のように走ることもあるという。

 負けたらどうしよう、といった不安を感じるいとまもなくなる。

 とはいっても、59秒で読むことのできる絶対量には、プロ棋士でも限界がある。選択肢二つと、その先の流れを読むのが精いっぱいというのが、羽生も含めたプロの共通見解だ。

 エネルギーを消費し続けた末の時間帯。指し手の読みに迷いや濁りも出る。名人戦は2日がかりで、持ち時間は各9時間だ。現在行われている棋戦の中で最も長い。双方が1分将棋になるのは、2日目の夜遅くだ。

 第6局の立会人を務めた元名人の加藤一二三(64)は「1分将棋の神様」と呼ばれる。序盤と中盤の大長考のため、「残り1分」にすぐに追い込まれ、そこから真価を発揮するからだ。

 加藤は「直観でひらめく手と後から浮かぶ手がある場合、直観の手はよりいい手だが、リスクが高いことが多い。少し形勢がいいと緩めの手を選ぶ時がある。それが危ない」と話す。今回の一連の対局の中でも、後者の手を選んだ側が負けたケースがあったという。

 羽生・森内戦でよくあるのが、残り時間羽生2分、森内1分のパターンだった。「残り2分」はいざという時に59秒で結論を出すのではなく、もう1分考える時間を確保する、羽生流の危機管理術と見る人が多い。

 読み切れるか否か。その瀬戸際の「59秒」という時間設定が、理詰めで決まると思われがちな将棋に人間臭さを与えている。

 □  ■

 羽生と森内は小学4年生以来の好敵手だ。プロ入り後は羽生が圧倒してきたが、昨年の竜王戦、今年の王将戦で森内が連勝。通算成績も五分近くまで追い上げた。

 少年時代の2人との研究会を主宰していた八段の島朗(41)は第6局の前日、こう言った。

 「森内さんとしては1分将棋になる前に読み切って決着をつけたい。羽生さんは、時間が切迫した時の人間の弱さの勝負にしたい。仮に森内側の参謀につくなら、ペースを速めるべきだと勧めたい」

 第6局。島の見立て通り、森内は1日目の昼休みまで持ち時間を34分しか使わなかった。

 「終盤の競り合いで羽生さんのすごさを感じた」と語る森内の戦略だった。

 以前は、序盤と中盤に時間を惜しみなくつぎ込んだ。「50年、100年の定跡の歴史の、その上を行きたい、限界に挑みたいという気持ちがあった」からだ。

 しかし、30代に入り、「秒読みの切れ味では若い人に勝てない。羽生さんとなら、ぼくの方が1分将棋は弱い」と冷徹に自己分析するようになった。1分将棋でノーミスというのは、理念としては美しいが、現実には難しい。

 羽生はさばさばとしていた。「駒がぶつかってからはダメだった。森内さんは充実してすきがない。1局の将棋で1回チャンスがあるかどうか。密度の濃い将棋を指されている」と苦笑した。

 第6局は一方的に時間を費やしてしまった。今の将棋は序盤で勝負がついてしまうことが多い。「慎重に指し、時間を使ってしまった」。終局時の残り時間は森内1時間43分、羽生55分。負けた4局中、第6局を含めた3局は、森内を1分将棋に追い込めなかった。

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 森内は17日から棋聖戦。四つ目のタイトルをめざす。

 羽生は5月に、朝日オープン将棋選手権を深浦康市から3勝2敗で奪取した。今年度は11勝7敗だが、森内と深浦以外には負けていない。覇権争いはこれからが本番だ。(敬称略)

 (文・山口進、写真・高橋洋)

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