[PR]

 1995年1月17日、命を、暮らしを奪った阪神・淡路大震災。21年が経ったこの日、各地で追悼行事が開かれた。歳月が流れても、亡き人への悲しみやいとおしさは尽きない。記憶や教訓は、次世代へ、ほかの被災地へと受け継がれていく。

     ◇

 苦しいとき、鈴木佑一さん(26)=大阪府豊中市=は鍛え上げた背中を意識する。すがる先は、手のひら大に彫られたタトゥー(入れ墨)だ。「佑」の字の周りを「眞」「富」「馬」が囲む。父、母、兄の名前の1文字だ。「お守りみたいなもん。何かあったら一緒にいてくれる」

 阪神大震災当時、鈴木さんは5歳。父と別れた母・富代さん(当時44)は鈴木さんを連れて「神戸母子寮」(神戸市兵庫区)に入り、2人で暮らしていた。社団法人が運営するその寮は、戦前から生活苦を抱える母子の「駆け込み寺」だった。

 震災で木造2階建ての寮は全壊。母子と職員の計5人が犠牲になった。鈴木さんは、数時間後に助け出されたが、同じ部屋で寝ていた富代さんは、布団にくるまれて息絶えていた。

 児童養護施設に移り、学校はそこから通った。頼れる家族はいない。高校では空手で体を鍛えた。奨学金を受けながら大学に。週6日は居酒屋でアルバイトをし、施設を出た20歳からは一人暮らしを始めた。

 そんな時、施設の理事長から「お父さんが亡くなったようだ」と知らされた。「いつもばらばらだったから」。背中にタトゥーを彫ることを決めた。兄の行方は今は知らない。

 母子寮の職員だった女性から、人づてに富代さんの形見を渡されたのもその頃だ。小豆色のマフラーと腕時計。富代さんは鈴木さんをひざの上に乗せ、「この子は我慢強いから、将来は大丈夫」と話していたという。母の記憶が薄れていただけに、うれしかった。

 関西大大学院で経営学を修め、半年間ほど英国にも語学留学。2年前の夏、インターネットのジュエリー販売業を起こした。在庫を抱えすぎたり、見積もりを誤ったりと失敗を重ねながら、昨年12月、大阪市北区の商業ビルに小さな事務所を構えた。

 17日、母子寮の跡地を訪れた。「家族もなく、経験もなく、1人で生きなあかんととがってきた」と鈴木さん。「最近、ちょっとだけ明るさが見えてきた」。母には、「仕事が少しずつうまくいき、一緒にやる仲間もできたよ」と報告した。跡地に作られたほこらには、亡くなった5人に似せた笑顔の地蔵が収められている。(笠井正基)

■息子の死、無駄にしない

 神戸市長田区の御蔵(みくら)北公園であった慰霊祭には、宮城県大崎市の田村孝行さん(55)、弘美さん(53)夫婦の姿もあった。東日本大震災の支援を続ける長田区の特定非営利活動法人「まち・コミュニケーション」と知り合った縁で参加した。

 東日本大震災で、長男健太さん(当時25)を失った。当時、七十七銀行女川支店に勤務していた健太さんは、避難していた屋上で津波に流された。

 田村さん夫婦には「なぜ高台に逃げなかったのか」との思いが消えない。毎週大崎市の自宅から女川町に通い、かさ上げ工事が進む銀行跡地を見下ろす高台で、全国から訪れる人々に語り部活動を続けている。

 慰霊祭の後、阪神大震災で母を亡くした魚住哲也さん(73)から、「鎮魂のともしび」と記された手作りの竹灯籠(たけどうろう)を手渡された。貼られたシールには親子3人の名前があった。

 「御蔵の慰霊祭は21年も続いている。息子の死を無駄にしないためにも、私たちも語り継いでいきたい」。竹灯籠は3月11日、女川の慰霊碑に持参するつもりだ。(矢木隆晴)

■小学生「もしもの時、じっくり考えたい」

 児童6人が犠牲になった兵庫県西宮市中浜町の市立香櫨園(こうろえん)小学校では、約930人の児童が校区内の指定避難場所を巡り、災害に関する問題を解く「クロスロード」に挑んだ。5年生の根岸花さん(10)は「もしもの時にどうするか、家に帰ってじっくり考えたい」。(筒井竜平)

■200人が精霊流し

 阪神・淡路大震災で地表に現れた野島断層を保存する、兵庫県淡路市の北淡震災記念公園では、遺族や市関係者ら約200人が慰霊碑前の水路で精霊流しをし、地震発生時刻の午前5時46分に黙禱(もくとう)。参列者らは「花は咲く」を合唱し、犠牲者の鎮魂を祈った。(吉田博行)