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 川崎市の河川敷で昨年2月、中学1年の上村(うえむら)遼太さん(当時13)が殺害された事件で、殺人と傷害の罪に問われた無職少年(19)に対する裁判員裁判が4日、横浜地裁で結審した。上村さんの母親が意見陳述をした。要旨は次の通り。

     ◇

 兄弟で一番小さい3300グラムで生まれました。夜泣きせず、よくおっぱいを飲む子でした。よく笑い、よく眠り、とてもおとなしい子でした。特に体が弱く、ぜんそく持ちでした。正月に入院したこともあります。

 遼太が年長のときに隠岐に引っ越しましたが、友達をたくさんつくり、すぐに島に溶け込みました。夜中にぜんそくがひどくなり、病院に連れていかないといけないこともありました。せきがとまらず、病院で点滴を打ちました。その時は本当に生きた心地がしなかったです。

 お調子者で争いごとは好きではなく、周りをちょろちょろして、いつもにこにこしていました。授業参観では何度も後ろを振り返ってにこにこするので、「前を向いて」と注意しました。そんな遼太がかわいくて仕方がなかった。

 3年生で陸上を始めて、800メートルの選手に選ばれました。「ママ、絶対見に来てね」と言っていたので、当日は張り切ってお弁当を作り、見に行きました。いよいよと、こちらまで緊張しました。スタートと同時にあっという間にトップに。独走しそのままゴールへ。

 興奮して「遼太!」と叫び、泣いてしまいました。周りの保護者に「もらい泣きした」と言われ、遼太もそのことを作文にも書いていました。題名は「走るのだいすき」。最近久しぶりにその作文を呼んで涙が止まりませんでした。

 自信がついたのか、「ミニバスをやりたい」と言い始めました。剣道と両立できるのかと思いましたが、弱音を吐かず、頑張っていました。その頃から「ママ」と呼ばず「かあちゃん」「おかあさん」と呼ばれるようになり、少し寂しい気持ちになりました。

 高学年になると、剣道との両立が難しく、剣道はやめました。ミニバス中心の生活はハードで疲れていたと思いますが、弱音を吐かずにまじめにやっていました。私たちは親ばかとマザコンで有名でした。バスケの後、必ず「かあさん、ぼくどうだった」と聞いてきました。5年生の秋にはキャプテンになりました。自慢の息子でした。

 元夫と長女のことで悩み、家に引きこもっていた時期がありました。そんな時、友人のお母さんから「遼太君をちゃんと見てあげて。お母さんがそんなだと遼太君がかわいそうでしょ」と。それからはバスケに保護者として積極的に関わるようになり、遼太のおかげで立ち直ることができました。

 隠岐大会で優勝し、県大会に出場しました。優勝カップを持った遼太と撮った写真が1番のお気に入りでした。その後、元夫がいて耐えられなくなり、川崎に引っ越すことにしました。「母さんと一緒に行く」と言ってくれたが、かわいそうなことをしたと思います。

 川崎に行ってからも友人をいっぱい作っていました。私もパートと夜のアルバイトを頑張りました。実家に戻ったので、母子手当などが打ち切られ、親の年金で生活するわけにもいかず、正社員で働ける職場を探し、実家を出ました。

 その頃、交際していたTさんと生活するようになり、お互いに働いていました。遼太は「Tくんといるといつも家がきれいでいいね」とか言ったり、こっそりTさんの服や靴下を身につけたりして、遼太なりにTさんのことを認めているんだと思っていました。

 バスケに打ち込んで、土手を走りに行ったり、公園で練習したりしていました。中学入学後、元夫が携帯を買い与え、深夜まで友人とやりとりしていたようでした。夏からは深夜に帰ってくるようになり、私は早番や残業があったりして会えないこともありました。

 新学期になり、電話をかけても出ないことがありました。これは捜索願をだそうかと思った頃に遼太は帰ってきました。遼太とちゃんと話したいと、Tさんと兄、遼太と私の4人で「なんで学校に行かなければならないんだ」ということを話し合いました。学校はしばらく休んでいいから、門限は守って帰って、ご飯を一緒に食べる約束をしました。その頃に日吉事件が起きました。

 遼太の顔がはれ、口の中が切れていたので、「病院に行こう」と言うと「目は見えるし冷やせばいい」と言いました。何度も病院に行こうと言いましたが「腫れていても大丈夫」と拒む遼太に、子ども同士でもいろいろあるから触れてほしくないのかなと思い、あまり触れるのを止めました。

 私が「長く休むと学校に行きづらくなる」と言っていましたが、私は子どもより早く家を出ます。制服や弁当の準備をして出ますが、遼太は制服を着るけどなかなか出られずにいたようです。「大人になったら母さんに家を買ってあげる。楽しみにしててよ」と言っていました。でも「あ、でも学校行ってないから無理かな」と笑っていました。

 2月19日夜、遼太がパンを焼いてくれ、「ジャムでしょ」と言われ、パンの上にジャムがやたらと載っていたのを覚えています。「寝るね」というとパーカを着始め、外に行こうとしました。私は「何調子乗ってんの。いい加減にしろ」と言いました。遼太は振り返って、何も言わず家を出ました。それから遼太は帰ってきませんでした。

 朝から仕事に行ったため、ニュースは見ていません。刑事さんが家に来て、遼太のことを聞いてきました。「昨日の夜何を食べたか」など聞かれ、刑事さんは外に出て電話をしていました。電話を終えて戻ってくると、刑事さんは「多摩川で事件があり、お母さんに確認してほしいことがある」と言いました。その瞬間、何が起きたのか分かりました。長男が何かあったことに気づいて出てきて、「自分が確認します」と言って確認してくれました。自分に何が起きたのかよく分からない。Tさんが私の代わりに話を聞いてくれ、支えられて立っていたことを覚えています。

 警察署で遼太の顔を見ると寝ているようでした。顔の傷口にはテープが貼られ、傷は隠されていました。鼻やおでこに傷があり、髪が刈られていました。体には布がかぶされていて、「体は見ない方がいい」と言われました。「見ない方がいい」と言われた理由に気づき、涙が止まりませんでした。遼太の目は少し開いていて、何度も閉じようとしましたが閉じず、その時の顔が今でも忘れられません。

 23日に遼太は家に帰ってきました。バスケ部のユニホームを着させ、傷を隠すためにアンダーウェアやネックウォーマーも買ってきて着せました。とてもかっこよかった。気づいたら身長も私と同じくらいまで伸びていました。「母さん、母さん」と起きてきそうでした。

 報道で好き勝手なことを書かれ、子どもたちも学校に行きたくないと言いました。川崎の家は遼太が残した汚れがあり、離れたくなかったのですが、離れることにしました。なぜ私たちがこんなにつらい目に遭わなければならないのか。そう思いました。

 家裁の少年審判を傍聴したときは、遼太のために何が起きたのかを知らなければいけないと思い、覚悟をして行きました。内容はとてもひどいものでした。人のすることではなく、聞くに耐えないことでした。

 一昨日の裁判の日までは遼太がどんなふうに傷つけられたのか知りませんでした。首、腕、足、身体のいたるところにある傷。いつも笑っていた遼太は残忍なことをされました。どれだけ怖かったか、という気持ちが大きすぎて許すことはできません。なんで誰も止めてくれないの。なんで、なんで、ばかりでした。

 遼太が自分から服を脱いだことを聞き、服がぬれていたら私が大騒ぎすると思ったのかな、学校で習った着衣水泳で泳ぎにくいと思ったのかな、などと考えると胸が締め付けられる思いでした。

 暴行を受けた後、2月の寒い中、遼太が23・5メートルを移動して必死で家に帰ろうとしたと思うと、どんなに怖かっただろうと思います。自分が生きていることが許せません。まだまだ子どもでいつも私の側で笑っていました。遼太のいないつらさをこれからどうしたらよいのか。結婚や子どもができて大人になっていく姿を見ることもできません。遺骨になってしまった遼太は友達と遊ぶことも、ゲームをすることもできず、人生の全てを奪われてしまいました。

 できるなら遼太が味わった怖さ、痛さの全ての苦しみを犯人に味わわせてやりたい。犯人に言いたいことは一つだけ。「遼太を返してほしい」ということです。以上です。