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 川崎市の河川敷で昨年2月、中学1年の上村(うえむら)遼太さん(当時13)が殺害された事件で、殺人と傷害の罪に問われた無職少年(19)に対する裁判員裁判が4日、横浜地裁で結審した。上村さんの父親が意見陳述をした。要旨は次の通り。

     ◇

 遼太が亡くなり、1年が経とうとしています。遼太を失った悲しみは、何一つ癒やされることはありません。私は一生この苦しみや悲しみを背負って生きていかなければなりません。命を奪った犯人たちを一生恨み、憎み、許すことはないでしょう。

 私は今、遼太が短い人生の半分以上を過ごした島で生活しています。とても小さな島です。どこに行っても遼太の顔を思い出すばかりです。

 いつも釣りをしていた岸壁。真っ黒になって泳いでいた海水浴場。なぜか玄関からではなく、遼太はリビングの窓から「お父さんっ」と入ってきた。どこにいても遼太のことを思い出してしまう。毎日毎日、思い出と暮らしていたが、つらい思い出になってしまった。

 遼太に最後に会ったのは、去年の1月2日でした。午前中に待ち合わせて一緒に昼食を食べた。

 川崎でいつも行く回転ずしでした。いつもマグロとサーモンばかり食べていました。少し照れた顔で食べていた遼太がまだ目に焼き付いています。

 京急川崎駅での別れ際に、「お父さん、今度の夏休みは島に行きたいんだけど」と言ってきたのが最後になってしまいました。島では夏には遼太が帰ってくると喜んでいた友達がたくさんいました。友人ばかりでなく家族も。しかし、帰ってくることはもうないのです。

 2月21日に川崎警察署から連絡がありました。私はその時はまだ海の上で仕事中でしたが、急いで港に戻り川崎へ向かいました。本土へ向かうフェリーのテレビでは事件のことが流れていました。発表された遺体が遼太のことだと発表されていましたが、心のどこかでは間違いであって欲しいと思っていました。

 川崎署では、遼太は寒い部屋で顔に白い布をかけて眠っていました。ここまできても間違いであってほしいと思っていました。白い布を取ると、遼太でした。切り傷やアザがあり、何度呼びかけても目を開けてくれることはありませんでした。

 その日から警察署での調書をとる以外は、川崎駅前を歩き回りました。もしかしたら犯人を見つけられると思い、一日中歩きました。河川敷から遼太の服が燃やされた公園までも行きました。買ったばかりの靴がぼろぼろになるくらい歩きました。

 あの時から犯人に対する怒りは変わりません。むしろ大きくなっています。犯人は13歳の子どもに対して複数で一方的な暴力を行いました。遼太はとても気の小さい子で、年上に囲まれて抵抗なんてできるはずがありません。我慢すれば許してもらえるかもしれないと思っていたかもしれません。カッターで切られても、真冬の川で泳がされても、コンクリートに打ち付けられても生きるために我慢していたのでしょう。しかし、犯人はそんな遼太の命を奪いました。

 その時の遼太を考えると胸が握りつぶされるような思いになる。どんなに怖かったか、痛かったか、考えるだけでも気が狂いそうになる。遼太は13歳の子どもでした。傷ついた遼太を見て、どうして止めようと思わないのか、社会に暮らす人間として持っているはずの気持ちがあるとは思えません。私は絶対に許せません。犯人にも同じ苦しみ、恐怖を味わわせてやりたいです。

 「命を奪ったものは自らの命をもって償うべき」。こんなことを言った人がいました。至極当然だと思います。今の私が思っているそのままです。できることなら自分のこの手で遼太のかたきをとってやりたい。自分がしてはだめなこととは思いながらも、毎日のようにそう考えてしまいます。

 犯人は19歳の大人です。少年ではありません。選挙権を持つ、私たちと同じ大人です。なぜ報道では実名ではなく少年になっているのか理解できません。遼太の命を奪った殺人犯です。それだけではなく私たち家族の人生も狂わせました。

 「反省しています」と言っていました。犯人の反省という言葉は信用できるものではありません。「遼太のことを忘れず、背負って生きていきたい」と言っていました。冗談じゃないです。遼太の命は犯人に背負えるほど、ちっぽけなものではありません。犯人もその親もあまりに遼太の命を軽く見ているようにしか思えません。

 私はいまだに前を向けてはいないと思います。