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 米国のハンフォードと旧ソ連のマヤ-ク。世界の二大核開発拠点の歴史を研究したケイト・ブラウン米メリーランド大教授(歴史学)に話を聞いた。「マンハッタン計画」から冷戦、チェルノブイリや福島の原発事故。そして、核時代を貫く軍と「原子力ムラ」の戦略とは――。

■米メリーランド大教授、ケイト・ブラウンさん

 昨年11月、ワシントンで開かれた米政府主催の「マンハッタン計画国立歴史公園」の専門家フォーラムに招かれました。米国人専門家ら約20人のほか、広島・長崎両市の代表も参加し、新たな国立歴史公園の展示内容などについて、内務省国立公園局やエネルギー省に意見を述べるものでした。

 国立公園局は広島・長崎への原爆投下という「米国のタブー」にも踏み込もうとしているようですが、エネルギー省には軍や原子力産業の影がちらつきます。今回、国立公園に指定されたハンフォードなどマンハッタン計画の関連3施設を所有するエネルギー省としては「短期間で原爆を開発して第2次世界大戦を終わらせ、多くの米国人の命を救った」という栄光の歴史を後世に伝えたい。その後の放射能汚染という数十年にわたる「負の歴史」は省略したいというのが本音でしょう。

 歴史を振り返ると、1930年代から40年代前半、マンハッタン計画が始まるころの米国の工場労働者らはストや暴動、飲酒、けんかが絶えませんでした。ハンフォードのプルトニウム生産を請け負ったデュポン社は、労働者の管理に非常に神経を使いました。原爆開発は秘密の国家プロジェクトです。その材料となるプルトニウムの生産にあたる工場労働者は、精神的に不安定な独身男性ではなく、妻と子どもがいる白人の核家族の男性がふさわしい、という結論に至りました。彼らは会社の方針に従順で、家族の生活を会社の給料に依存する。ハンフォード施設の労働者が暮らすリッチランドでは、国費で子育て支援や学校、商店、交通機関を充実させました。

 私の著書「プルトピア」では、こうした「核の桃源郷」ができた理由を、米国のハンフォードと旧ソ連のマヤ-クの現地調査を通じて説明しました。米ソが核開発に明け暮れた冷戦の約40年にわたって大量の放射性物質が放出され、何万人もの労働者らがそれを土に埋めたり、川に垂れ流したりしてきました。みんながそれを知っていたのに、40年もの長い間、表沙汰にならなかったのはなぜでしょうか。

 それは、労働者が快適な生活環境を与えられ、企業とそれを受注する国に依存していたからです。マンハッタン計画に参加し、冷戦期にもハンフォードの事業を請け負ったゼネラル・エレクトリック社(GE)は、このシステムを「原子力ムラ」と呼びました。労働者の家庭に無料でおむつを配布し、町にはレベルの高い学校をつくる。労働者は家を買う必要もありません。ただ同然で快適な家を借りられたからです。貧しかったはず工場労働者に「中流意識」を持たせました。のちに日本に原発を持ち込んだGEは、ハンフォードの「原子力ムラ」のような国策依存構造を福島にも植え付けたのでしょう。

 さらに、ハンフォードとマヤ-クの現場を見て、奇妙な共通点が数多くあることにも気づきました。プルトニウム生産を加速するために放射性ヨウ素を詰め込んだ「グリーン燃料」を米国が製造すれば、ソ連も同じことをする。米国が放射性廃棄物を土の中や川へ捨てているなら、ソ連もそうする。お互いににらみあい、まねしていたのです。

 旧ソ連と違って報道の自由がある米国では、1950年代に急転換がありました。戦後、マンハッタン計画を引き継いだ原子力委員会は放射線被曝(ひばく)そのものよりも、民衆のヒステリーにさらされることの方を恐れるようになったのです。米国が水爆実験をした太平洋ビキニ環礁での第五福竜丸などの被曝(ひばく)事件が大きなきっかけでした。米国内でもネバダ核実験場からの放射性降下物に対する拒否反応が広がり、公衆衛生の対応から世論対策に重心が移りました。核開発を進めたい米国主導で国際放射線防護委員会(ICRP)が設立され、被曝の「許容線量」の考え方が導入された。世界的かつ長期的な広報戦略が今日に至るまで続いています。

 当時、原子力発電の技術開発でソ連に後れをとっていた米国は、日本に原子炉を輸出することにしました。広報戦略の一環です。ソ連は、米国の原子炉を「マーシャルアトム」(軍事用の核)だと言ってばかにしていました。米政府はこれを恥じ、アイゼンハワー大統領が「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」を唱え、原爆被爆地の広島にあえて原子炉を置こうとしたのです。ビキニ事件を受けた日本の反核運動の盛り上がりもあって「広島原発」は実現しませんでしたが、ともあれ、米国製の原子炉が日本に設置されました。それは、原子力潜水艦用に開発された軍事用の原子炉を転用し、民生用の原子炉としては安全性が十分確認されたものではありませんでした。しかし、改良に余分なコストや時間をかけたくなかった。米国は非常に危険でやっかいなものだと知りつつ、ソ連をにらむ西側陣営の日本に輸出した。日本にはエネルギー資源がなく、米国に支配された国だったからこそ実現したのでしょう。

 著書「プルトピア」に登場するハンフォード(リッチランド)とマヤ-ク(オジョールスク)で、私が最も知りたかったのは、なぜ労働者らは放射能に包まれた破壊的な環境で暮らし、命を危険にさらすことを受け入れたのかということでした。そこには、国策である核開発に極めて従順で忠誠心を持つ「原子力ムラ」の労働者がいて、「プルトピア工場」を愛していました。

 リッチランドの高校のスポーツクラブの名称は「リッチランド爆撃隊」で、マスコットはキノコ雲です。応援チアリーダーたちは、キノコ雲の形の陣形をとったりする。それを無分別だとは思わない。町にとって、原爆は誇りなのです。ロシア側の閉鎖都市オジョールスクでは、1998年に住民投票した結果、85%がゲートを閉じた閉鎖都市のままでいることに賛成しました。たとえ自分たちが汚染されても、軍や政府に忠誠を誓うのです。

 90年代になると、ハンフォードの風下住民や農民らの健康被害があらわになり、放射線の影響が疑われましたが、工場労働者の多くは気に留めませんでした。70年代に原子力委員会を引き継いだエネルギー省や原子力産業によって「低線量の放射線は心配ない」という言説が米国社会に振りまかれていたからです。それは、たばこ産業が自前の研究結果を示して「喫煙は人体に無害だ」というのと同じような広報戦略です。

 それは4段階あります。まずは…

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