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 東日本大震災で崩れた家に、津波をかぶった1枚の写真があった。肩を寄せ合う笑顔の若いカップル。偶然見つけたボランティアの男性は、2人の無事を願い、写真を回収した。その翌年、写真の女性が目の前に現れた。

 川谷清一さん(59)は、大阪府立長野北高校の事務長だった。震災から1カ月後、休暇を取って東北に向かい、宮城県南三陸町に着いた。カメラが趣味だった川谷さんは、写真などを拾い集めて洗浄するボランティアに登録した。

 町内には、津波で流された家屋や車、船、無数のがれきが積み上がっていた。乗ってきた自家用車の中で寝泊まりをしながら、3日間にわたり、持ち主が特定できそうな写真や腕時計、表彰状などを集めた。

 JR気仙沼線の清水(しず)浜(はま)駅の近くに来たときだった。線路は崩れ落ちていた。

 倒壊した家のあたりで1枚の写真に目がとまった。ピースサインを重ね合わせ、ほほえむ若い2人。津波をかぶって表面が汚れ、少し丸まっていた。そばに落ちていた携帯電話と並べて、何げなく一眼レフカメラのシャッターを切った。「生きててくれへんかな」と願いながら、写真と携帯を回収した。

 川谷さんは、その後も休日や休暇を使い、1年間で計10回、宮城県を訪ねた。「また来なあかんな」。新たな出会いがもう一回、もう一回と足を運ばせた。

 もっと被災者に寄り添いたい。そう思い、2012年4月に35年間勤めた大阪府を退職し、南三陸町から西に20キロ余りの宮城県登米市に移住した。

 その年の秋、震災から1年半の間に撮影した被災者や被災地の写真約50枚を選び、借りていた古民家の土間に掲げて展示会を開いた。あのとき撮ったカップルの写真も壁に飾った。

 初日のことだ。古民家を訪れた女性から、思いがけない言葉をかけられた。

 「この写真に写っているの、私です」

 小坂翔子さん(29)だった。当時、南三陸町の自宅が津波で壊され、その後、古民家から1キロも離れていない登米市内の職場で働いていた。同僚から、自分の写真が展示されていると聞いて見に訪れた。

 川谷さんは、一緒に写っていた男性のことが気になった。亡くなっていたらどうしよう。軽々しくは聞けない。恐る恐る「隣のこの男性は」と口にした。

 「彼です。いまも付き合っています」

 鳥肌の立つ思いだった。よかった。生きていた。

 それは奇跡の生還だった。芳賀(はが)健爾(けんじ)さん(29)は、地元で働くため、震災前日の3月10日に関東地方から南三陸町に戻ってきたばかりだった。しかし、翌日、自宅が津波で流され、自身ものみ込まれた。水中で必死に泳ぎ、水面上に顔を出したところで運よく山肌にぶつかり、助かった。

 川谷さんが写真を見つけたのは、健爾さんの自宅の近くだった。引っ越し用の段ボール箱30個はすべて流され、川谷さんが拾った写真だけが残った。携帯も健爾さんのものだった。

 2人は震災前に結婚の約束をしていた。しかし、2人とも津波で自宅を壊された。小坂さんの家族は無事だったが、健爾さんの祖父はいまも行方不明だ。結婚どころではなかった。

 2013年7月、海に臨む南三陸町のホテルで2人は結婚式を挙げた。川谷さんも招かれた。披露宴のスクリーンには2人を紹介する写真が映し出され、あの1枚も披露された。唯一残った震災前の2人の写真だ。

 約1万7千人が暮らしていた南三陸町では620人が亡くなり、212人が行方不明のままだ(今年2月末現在)。南三陸町ボランティアセンターでは約15万枚の写真をデータ化して保管し、これまでに約4万枚が持ち主に戻ったという。

 健爾さんは「まさか写真を拾ってくれたご本人にお会いできるとは思いもしなかった。何かの縁。奇跡ですよね」と話す。

 初めて会った時の川谷さんの言葉を、いまも覚えているという。

 「2人とも生きててくれて、ほんまによかった」

 受け取った写真は自宅の書棚に大切に飾っている。

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 南三陸町ボランティアセンターの連絡先は(0226・46・4088)。ホームページは(http://minamisanrikuvc.com/別ウインドウで開きます)。(篠健一郎