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 母はかすみ草が好きだった。どうしてだろう。

 「花言葉か何かかな」。今月6日の食卓。戸羽太河(たいが)さん(17)が口にすると、父の太(ふとし)さん(51)は「ちっちゃい花の雰囲気じゃないかな」とほおを緩めた。

 震災からしばらくは、母・久美さん(当時38)のことを家族で話すこともできなかった。

     ◇

 津波に襲われた岩手県陸前高田市の街中に、自宅はあった。家は流され、小学6年生だった太河さんは、2歳下の弟と親戚の家で避難暮らしを始めた。

 市長である父は、指揮をとる災害対策本部に泊まり込み、帰ってこない。母の安否はわからないまま。弟はずっと泣いていた。

 自分は2階の部屋で、昼寝ばかりしていた。「大丈夫。お母さん見つかるから」。周りの人から声をかけられると、また苦しくなり、布団にもぐって泣いた。

 10日ほどして、親戚が父のところへ連れて行ってくれた。久しぶりの父は無精ひげで作業服姿。胸に飛び込み、抱きしめられると、涙が止まらなくなった。

 父も泣いていた。そして笑顔で言った。「泣いたってどうにもならないことがあるんだよ。お兄ちゃんなんだから、頼む」

 小さい頃から、いつも父や母にくっつき、甘えるのが大好きだった。

 でも、泣いても母が帰ってくるわけじゃない。

 いま父は一番大変な場所にいる。弟はつらそうだ。せめて自分はしっかりしよう。そう決めた。

 4月。母が遺体で見つかり、父が対面したことを新聞の記事で知った。

     ◇

 中学に進学しても親戚宅に身を寄せた。父は多忙ながらも帰ってくるようになった。けれど、母のことはだれも口にしない。たまに家族で出かけると、車の助手席やレストランの座席が空いていた。

 5月の連休明けから学校を休みがちになった。「頭が痛い」。うそをついた。勉強や部活も面倒に思えた。

 放課後、担任の野口貴弘先生(44)が家を訪ねてきた。休む理由は聞かず、学校に来いとも言わない。「メシ食ってっか?」と、ときどき栄養補給のゼリーを持ってきてくれた。

 夏休み明け。車で送ってもらったときに父の話題になった。「お父さん、がんばってるなあ」。先生はそう言った後、亡くなった自分の父の話をした。

 「俺は悩んだとき、おやじならどうするかって心の中で会話するんだ。目の前にはいないけれど、いつも支えられてる気がする」

 このころ、父が震災の体験を記した本を出した。親戚宅にも何冊か届いていた。手にとった。

 父は母の死を1カ月半伏せていたが、本にはその理由が書かれていた。

 《肌の色が黒く変わってしまっていた。子どもたちは「お母さんに会いたい」と言うはず。でも絶対に見せてはいけない。きれいなままのお母さんのイメージだけを子どもの一生の宝物にしてやりたい》

 父の思いを初めて知った。