[PR]

 5年前の大震災では、関東地方でも沿岸部などで多くの人が被害に遭った。家を建て、店を開き、再び夢に向かって力強く歩む人たちがいる。

■「サーフィン文化消えるのは嫌だ」

 千葉県旭市の飯岡海岸。九十九里浜の北東の端でサーフショップ「ゴロデーサーフハウス」を営む関口常男さん(62)は毎日午前10時ごろ、波の高さや海面の状態を確認するため浜に行く。5年前の朝、海は穏やかだった。

 それが数時間後、最大高さ7・6メートルの津波となって襲ってきた。市内では14人が亡くなり、2人が行方不明のままだ。関口さんと妻邦子さん(56)が30年近く営んできた店舗兼自宅は浸水した。兄のように慕っていた叔父(当時67)は外の様子を見に行ったきり、数日後、木の上で遺体となって見つかった。

 関口さんは地元で生まれ育ち、16歳でサーフィンに夢中になった。公務員として働いた後、27歳で開業。「一時のはやりもので、商売は成り立たない」と周囲に言われたが、ボードを手作りし、愛好家たちのベースキャンプとなってきた。

 津波で海は一変した。消波ブロックは海底に散乱。安全に波に乗れる環境ではなくなった。不明者の捜索が続き、レジャーへのためらいもあった。サーファーは減り、特に家族連れの姿はほとんど見なくなった。

 「この土地からサーフィンという文化が消えるのは嫌だ」。震災から2カ月後、お得意さんから商品を提供してもらい、車庫を仮店舗に営業を再開した。消波ブロックや流木の位置を書き込んだ海の安全マップを作った。「空元気でもいいから、やれるよっていうのを見せたかった」

 2013年9月、周辺10軒のショップに呼びかけ、「九十九里観光サーフフェスタ」を実現。サーフィン教室や全国大会に人が集まった。それをきっかけに訪れるリピーターも多く、フェスタは毎年続けている。

 震災から5年を迎えた11日朝も、いつも通りに海に行った。「恐怖というより、自然に対する畏敬(いけい)の念がある」。白波に乗るサーファーたちを見つめていた。(横山翼)

■「目標見つけようやく立ち上がった」

 東京・八丁堀の海鮮居酒屋「鮟鱇(あんこう) 篠げん」で5日、名物の「アンコウのつるし切り」が披露され、客をわかせた。包丁を握るのは、茨城県の最北端・北茨城市の平潟漁港近くで民宿を営む篠原聡さん(52)。福島第一原発事故の影響で民宿の売り上げが回復しないなか、特産のアンコウを使った漁師料理「どぶ汁」が通用するか東京で試したい、と昨年10月に店を構えた。

 同市では津波などで約8700戸が被害を受け、震災関連死を除いて5人が亡くなった。今も1人が行方不明だ。篠原さんの民宿2軒も地盤沈下などで被災。民宿は11年秋までに再開させたが、観光客は激減。売り上げは一時、震災前の3割程度まで減った。

 市観光協会の理事だった篠原さんは、風評被害の払拭(ふっしょく)キャンペーンでアンコウをPRしに県外へ出向いた。しかし、初めのころは誰も手を伸ばさなかった。百貨店の売り場からは福島と茨城の野菜や魚が消えていた。やるせなかった。

 PRの合間を縫って東京の居酒屋に足を運ぶと、「俺のアンコウ料理の方がうめぇんじゃないか」。妻洋子さん(51)と東京進出の夢を描くように。「このまま東京電力からの補償に頼ってのうのうと生きるのは嫌だ」。2千万円の借金をしてまで開店した。

 どぶ汁は、アンコウの肝を「から煎り」してみそを加え、アンコウの身と大根やネギなどの水分だけで煮る。もとは漁師が冬場に、船上で体を温めるために食べた。真水を節約するために考え出されたと言われている。篠原さんの民宿では、観光客向けの冬場のメイン料理だ。

 民宿は洋子さんに任せ、週に6日は東京の店に立つ。日曜は平潟へ戻って自ら魚を競り落とし、車で運ぶ。他の日は従業員らが仕入れたものを送ってもらう。寒流と暖流がぶつかる好漁場でとれた魚は「常磐もの」と呼ばれ、市場で高く評価されてきた。

 「新しい目標をみつけ、ようやく立ち上がったところ」と洋子さん。まだ店単体では赤字だが、篠原さんは「震災があったから、厳しい荒波に飛び込むことを選べた」。軌道に乗せて店を増やし、「より安く、本物の味を届けたい」。(酒本友紀子)