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 「認知症の人にやさしいまち・うじ」を昨年3月、宣言した京都府宇治市。市の取り組みに、認知症の人とその配偶者たちが協力している。その一組がアルツハイマー病の中西美幸さん(63)と、夫の俊夫さん(63)だ。美幸さんは一時、「生きていても仕方ない」と口にしたこともあったが、同じ境遇の仲間に出会って笑顔が増えた。

 「アルツハイマー病かもしれない」と美幸さんが市内の病院で告げられたのは2013年9月。59歳のときだ。

 ある日、勤務中の俊夫さんに美幸さんから電話が入った。電話の向こう側で、ガシャガシャ音がする。俊夫さんが急いで自宅へ戻ると、掃除機がバラバラになっていた。ごみを取り出した後、戻し方が分からず、分解してしまったらしい。買い物はいつもお札で支払うため、美幸さんの財布は小銭で膨れあがっていた。

 俊夫さんは、「アルツハイマー」という言葉を初めて耳にした。「一番、混乱していた時期」だったと振り返る。「2人で生活していたらダメになる」と思い、14年1月、離れて暮らしていた3女に頼み、3人で暮らし始めた。

 その年の4月、神戸市の病院でアルツハイマー病と鑑別診断された。診断を受けて「初めて介護に向き合えた」と俊夫さん。インターネットで調べ、「薬では治せない。ケアが大事だ」と知った。美幸さんを抱きしめ「大丈夫。大丈夫」と毎日のように話しかけた。

 地域包括支援センターに相談し、宇治市に認知症カフェ「れもんカフェ」があることと、府立洛南病院でデイケアの一環としてテニスや絵画の教室が開かれていることを教えられた。

 テニス教室は「スポーツがしたい」という、ある認知症の人の声がきっかけで12年に始まった。診断されて不安な時期に、スポーツを通して仲間と出会い、できることが増える喜びを感じ、楽しい時間を過ごせる場となっている。

 鑑別診断直後の4月から、中西さん夫妻は週1回通う。

 天候やコートの状態が悪い日は卓球に変わる。今月1日の教室は卓球で、6組の夫婦が参加した。

 子どものころの美幸さんは病弱で、体育の時間はもっぱら見学していた。卓球は集団就職で勤めた会社で昼休みに同僚と遊んで以来だが、通ううちにラリーが続くようになってきた。リターンが決まって歓声が沸くたびに、美幸さんに笑顔が増えていく。

 仲間ができ、それまでは夫婦だけでの外出だったが、みんなで花見や紅葉狩りに出かけ、にぎやかに過ごすようになった。

 21日には市の認知症フォーラムが開かれた。中西さん夫妻はテニス教室の仲間と参加した。最後には、誘われて2人も壇上へ。美幸さんは笑顔で拍手し、会場に向かって手を振った。

 会場では、冊子「旅のしおり」が配られた。認知症と診断されてからの人生を「旅」に見立て、本人と家族の思いや見た風景を、①個として認知症に向き合う②仲間との出会い③地域の中で生きていく――の3段階に分けてまとめている。

 俊夫さんの文章は、①で紹介されている。「何が起きているのか理解できず、思わず『何やってんねや!』と怒鳴りつけてしまうこともあった。こうした日々が続き、やがて本人は『もう生きてても仕方ない』と口にするようになる。生活は一転し、変わりゆく風景を前に、『このまま2人でつぶれていくんかな…』との思いが浮かんできた」

 市は、宣言の実現化に向けて動き始めている。医療や介護の専門職だけでなく、住民や企業も巻き込み、地域一丸で進めていくことが取り組みの特徴だ。春には、認知症を理解し、本人の視線で支援できるよう市などの研修を受けたボランティアが、企業との連携も視野に活動を始める。

 認知症の人と家族が地域の一員として暮らし続けるには、買い物や外出など日々の生活でかかわる企業や住民の協力が欠かせないからだ。英国の先駆け的な活動を参考にしている。

 記者が美幸さんに、どんな街になってほしいかを尋ねると、「もっと、おしゃべりしたい。話しかけてほしい」と言った。

 俊夫さんは「何かあったら支えてくれる」と、友人や隣近所の人に美幸さんが認知症と診断されたことを知らせているが、会ってもあいさつ程度で、立ち止まって世間話をすることはなくなった。「特別なことはいらない。50年前のように、支え合える大家族のような地域になってほしい」と俊夫さんは話す。(寺崎省子)