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 女優の黒柳徹子さんと電話で話していたら、こんなことをおっしゃる。「私の故郷は青森県三戸郡の諏訪ノ平。そう決めています」

 ベストセラーの「窓ぎわのトットちゃん」でもわかるように、黒柳さんは東京生まれの東京育ち。その本の最後にこうある。

 「トットちゃんは、満員の疎開列車の中で、大人にはさまれながら、寝ていた」

 列車が向かっていたのが諏訪ノ平(現南部町)なのだった。「徹子の部屋」のスタジオを訪ね、当時のことを聞いた。

 疎開のきっかけは1945年3月10日、米軍の東京大空襲だったという。黒柳さんが11歳のときだ。

 その数年前、母の実家がある北海道から帰る汽車で隣に座ったのが、諏訪ノ平で農業を営む沼畑周次郎さんだった。「あの木は何の木?」。窓の外を見ていた黒柳さんが声をあげると、「リンゴの木だよ」。「リンゴ好きかい?」「大好き!」「じゃ、送るから」

 リンゴが届き、手紙のやりとりから、沼畑さんの息子が黒柳家に下宿するまでになった。こうして疎開先が決まったのだった。

 戦争中の食糧難で、当時の黒柳さんは1日に大豆15粒しか食べていなかったそうだ。栄養失調が原因で全身におできができ、手足の爪の間が化膿(かのう)した、と振り返る。

 「お医者さんもいないんですから、すごく痛いのを我慢するしかないし、自分で治すしかありません。八戸のお魚のおかげで助かりました」

 諏訪ノ平でとれた果物や野菜をかついで母と八戸港へ行き、魚と物々交換。煮魚を食べ始めて約10日で完治したという。

 こんなこともあった。里帰りした北海道から青函連絡船で青森駅に着いたが、諏訪ノ平まで行く汽車は翌朝までない。駅で一晩過ごそうと言う母に、黒柳さんは八戸までしか行かない汽車の乗降口の取っ手につかまって「これに乗る!」とだだをこねた。

 「虫の知らせというんですか。母も仕方なく乗り、夜遅く八戸に着きました。あとになって青森が空襲を受けたとわかりました。あのまま一夜を明かしてたら、私たちはこの世にいなかったかもしれません」

 黒柳さんの父、守綱さんは、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)の首席バイオリン奏者だった。召集で中国戦線へ出征、音信が途絶えた。シベリアに抑留され、49年末に帰国した。

 「親と離れ、安否もわからない心細さ。まともな食糧もない空腹感。子どもを不幸にする戦争は二度としてはいけません」

 黒柳さんは国連児童基金(ユニセフ)の親善大使として毎年、アフリカやアジアで戦禍や飢餓に苦しむ子どもたちを訪ねる。

 「両親とも失った子、レイプされた子。家が貧しくて、お金ほしさに兵士になった女の子もいます」

 その姿は自身の少女時代に重なる。東京にいたころ、ほうびにもらうスルメほしさで出征兵士に日章旗を振った苦い記憶。「兵士が戦死したら、責任の一端は私にもある。あのスルメが私の戦争責任だと考えるようになりました」

 そんな思いをテレビで語ったら、元兵士から「(戦争への)恨みつらみが、スッと消えていくのを感じた」と手紙が来た。「テレビの仕事をしていて良かった」と感じた瞬間だった。

 黒柳さんはテレビ女優第1号。米NBCプロデューサーの「テレビは永久の平和に寄与できる」という言葉が支えになったという。

 15日、「徹子の部屋」のゲストは漫画家の松本零士さん(78)だ。疎開体験を持ち、父は元陸軍パイロット。戦争について語り合うことになるだろう。

 「私より年長で戦争を体験された方はほとんど亡くなられました。私、自分の体験と平和の大切さを語らないといけなくて忙しくなったけど、そういう宿命なんだと思っています」(隈元信一