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■漱石国際エッセーコンテスト最優秀賞

 私の人生を決定づけた人物は漱石であるといってもよい。そして私は今、漱石の小説を読む前には想像もしなかった日々を生きている。

 私と日本の出会いは、高校時代にさかのぼる。詩を書くことが好きだった私に、先生は私の詩のスタイルが「百人一首」に似ていると言って、英語版百人一首を勧めてくれた。言葉の向こうで作者の思いにもっと近づきたい、共感したいと、一生懸命になった。31文字に込められた思いを国境と時を超えて読むことのできることをうれしく思った。

 2012年、23才の私はトロントにあるヨーク大学で英文学とcreative writingを専攻していた。「漱石」を知ったのは、アーサー王文学と近代文学を比較する授業で、「薤露行(かいろこう)」というタイトルに出くわしたときだった。「薤露行」の英語版をずいぶんと探したが、結局見つけることはできなかった。そんな時、トロント市内の本屋で手に入れたのが英語版「草枕」だった。すぐに私は「草枕」に夢中になった。「草枕」に惹(ひ)きつけられたきっかけ、それは「草枕」には英文学の作品からの引用がたくさんあったことだ。彼の引用した詩や絵画に、20世紀初頭、日本が西洋諸国の影響を受けて変化していくことに対する漱石の不安や抵抗、葛藤が映し出されているように感じた。たまたま私が好きな詩も「草枕」にいくつか引用されていて、漱石と自分のこのみが似ているのではないかとも思った。英語版「草枕」を読んで以来、漱石の本を英語版で次々と読んだ。漱石の文章は、簡単には理解できない重々しい世界観が漂っていることが多いが、人を引きつけて離さない魅力的な雰囲気も持っている。

 漱石に限らず、日本の文学作品を読むときは必ず英語版を読んでいた。英語とフランス語しかできないのだから、私にはそれ以外の方法はない。しかし、もし翻訳者の言語フィルターを通さずに漱石の言葉を理解することができれば、英語版では十分に伝わってこない漱石にもっと近づけるのではないかと考えるようになった。漱石と私の間にある壁をなくしたいと思うようになった。

 大学4回生になって将来について考え始めたとき、大学院に進学して日本文学を専攻したいと教授に相談した。日本語運用能力がない私を心配して、まずJETプログラム(日本で英語指導助手として働く仕事)に挑戦してはどうかとアドバイスをくれた。かつて、先生の友人も日本で働きながら日本語を習得して、今は翻訳者として活躍していると話してくれた。すぐにJETプログラムに申し込むことを決め、希望赴任地には「四国」と書いた。第一希望が通る可能性はあまり高くないと聞いていたが、せめて「四国」に赴任できたら、週末ごとに松山を訪れることはできるだろうと考えていた。赴任地が「四国の松山」と聞いたとき、自分の幸運に思わず感謝した。

 2015年8月に漱石が暮らした松山に赴任した。今は、4つの高校で漱石のように英語を教えている。始発のバスに乗って、朝もやに包まれた田舎の学校に向かっているとき、「草枕」の第1章を思い出す。松山城の椿(つばき)を見ると、「鏡が池」に落ちていく椿を見ていた主人公「余」を思う。道後アーケード付近にある坊っちゃん時計を見上げると、「赤シャツ」と「野だいこ」の最後のシーンが目に浮かぶ。「坊っちゃん」を読んで松山に来たことを同僚に話すと、「漱石は松山で過ごした時間を嫌っていたのに。」といつも笑われる。漱石が嫌っていたと言われるこの町に来たのを知ると、漱石ファンとしてはおかしな行動をとったと人は思うのだろう。もちろんそんなことは来日する前から知っていたし、ロンドン留学中も漱石はみじめな思いをしていたことも知っている。たとえ松山やロンドンで過ごした時間が漱石にとって不愉快な時間であっても、漱石の新しいスタートであっただろうし、松山やロンドンなしに「草枕」や「坊っちゃん」は存在しなかっただろう。坊っちゃんは松山で小さな革命を起こし、松山は漱石を次のステップへ押し出した。

 私にとって漱石と同じように、松山は新しくスタートをする町となった。漱石は第二のふるさとを与えてくれ、翻訳者になるという夢へのドアを開いてくれた。いつの日か、私が伝えたいと思う日本の小説や文学作品を翻訳してみたい。かつて漱石が私にしてくれたように、人生を変えるような作家と出会う誰かの助けをしたい。漱石に教えてもらった夢を抱きながら、今日も私は教壇に立つ。

 ◆Stephanie Erica Chaves 1989年生まれ。カナダ出身。愛媛県英語指導助手として県立松山中央高校を拠点に働く。今回は日本人の同僚の助言を得て書いた。

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