『震災6年 鈴木洋子さん、康弘さん夫婦からのメッセージ(福島県富岡町)』
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■被災地からのメッセージ2017(1)

 福島第一原子力発電所から9キロ。福島県富岡町にあった認知症グループホームの入所者が、職員の車でキャラバンを組みながら福島市内に避難してきたのを取材したのは、2011年3月21日だった。あれから6年。グループホームを経営する鈴木洋子(67)や康弘さん(70)らを取材してきた。現在は、居住制限されている区域で立ち入りは出来ても生活することはできないが、4月に解除される見込みだ。洋子さん、康弘さん夫婦と、6年前の避難コースを福島市からさかのぼりながら、震災当時のまま残る施設を訪ねた。

 ■原発事故から6年、避難ルートを行く

 JR東北線の南福島駅近くにある、避難先のグループホーム「シニアガーデン」だ。富岡町など双葉郡の高齢者20人が入所する。このほか、定員18人と10人の2つのデイサービスを提供している。

 康弘さん運転の車で最初に向かったのは、2011年3月12日、シニアガーデンの利用者とスタッフが着の身着のまま避難してきた川内村のそば屋だ。阿武隈山地にあり、雪も積もっている。富岡町役場の指示で全町避難先として川内村を指定されたが、鈴木さんらは、利用者のケアを考え、座敷がある民間のそば屋を借りられた。

 「でもやっぱりね、一瞬にして生活がかわっちゃんだからね。これだけ多くの人の」

 洋子さんは、車の後部座席から外を眺め、こうつぶやいた。

 到着したそば屋は平屋建て。洋子さんは、建物の外から座敷のテレビを見て、こう語った。

 「あのテレビで初めて津波でこうなったのだと、原発事故で私たちが避難したのはテレビで分かった。それまでは何のために20キロ圏外に出ろと言われているのか、役場に行っても誰も教えてくれなかったね。でも、『でなさい、でなさい』と言われて出てきて、ここ(川内村のそば屋に)来たんですよ」

 玄関のところで、脊椎(せきつい)圧迫骨折の利用者が職員に両脇を抱えられ、歩いて座敷まで入っていった。海に近いところに家があった利用者は、夜、津波を流すテレビ番組を見て、「うちに帰る。うちがどうなっているか心配だ」と起き上がったのだという。

 スタッフと利用者の数は、約60人。一度立ち上がると寝るところがなくなるほどだった。3月13日に、福島第一原発で水素爆発が起こると、外気を取り込む暖房機も使えなくなった。

 ■清掃・修繕費「4000万円」どうする?

 車を東に進めると、富岡インターがある高速道路の常磐道が見えてきた。洋子さんはつぶやいた。

 「(あまり雪の積もらない太平洋沿岸の浜通りといった)こういうところで生活していた人たちが、毎日、雪の中で生活しているんだから、環境の変化は大きいよね」

 市街地に入るが、国によって避難指示区域に指定されているうえ、建物の傷みも大きく、危険で立ち入りが禁止されていることを示す「赤紙」が貼られている建物が多い。時折、車が行き交うが、人影は見られない。

 東京電力の事業所の近くに、シニアガーデンの建物があった。

 定員18人の認知症グループホームのほか、別棟では鈴木さん夫婦が泊まり込みでデイサービスをしていた。

 通用口からグループホームに入った。2011年3月11日のままだという。洋子さんはまたため息をついた。ネズミのフンがあちこちにあり、保管してあった食料などが荒らされた後があちこちにある。

 「ネズミの仕事です」

 フロアには、3月11日の手作りカレンダーが残る。

 国と町は、帰還困難区域以外の避難指示を4月1日に解除することで合意している。洋子さんに、シニアガーデンの今後について聞いてみた。

 「今通ってきましたけど、誰もいない街ですよね。戻れる状態になっていると判断したのは、誰ですかね。この状況で戻れるとは、私は思わないんですけど」

 「認知症(の)高齢者の人と生活するということが、どういうことなのか。私たちが命がけで守ってきた利用者さんなので、ここで寝せるわけにはいかないでしょ」

 富岡町の住民は、いわき市や郡山市などに避難している。グループホームを再開するには、スタッフの確保が欠かせない。全国的に介護や看護に携わるスタッフの不足問題があるうえ、いわき市から車で通うにしても1時間以上かかる。

 康弘さんによると、建物内を清掃しようと業者に打診したが、「4000万円かかる」と言われ、手がつけられなかった。

 避難した福島市や大玉村、そして再び福島市に戻っても、鈴木さん夫婦は常に事業を継続してきた。自分たちで清掃するにも、「(福島市と富岡町は)距離がありすぎますよね」という。

 グループホームは、岐路に立たされている。地域密着型と言われ、制度上、富岡町など双葉郡の一部の町の住民しか利用できない。

 富岡町に戻ったら、利用したいというニーズはあるのかと、洋子さんに聞いてみた。

 「富岡に帰ってきたら、お願いしますという話は全くないです」

 「福島で空床がでたとき、役場や地域包括支援センターに連絡して、今、何とか、何とかっていう状況なので」

 屋上から康弘さんと街を眺めてみた。

 2011年3月11日。道路を挟んだ斜め向かい側の児童館を借りて一夜を過ごした。施設から簡易トイレを運ぶなどして、何とかしのいだ。

 「車のライトで照らして一晩過ごして、次の日役場に呼ばれて避難しなさいと言われた。まさか原発事故とは思わなかったんですよね」

 点在する双葉郡の避難者。一方、空床があるからといって、福島市の高齢者を入所させることはできない。鈴木さん夫婦は、将来的な経営の課題を挙げる。

 「地域密着型の介護保険サービスの中でどうやっていくのか・・・」

 別棟のデイサービスでは、他のところで受け入れてくれない、在宅酸素やストーマ(人工こうもん)がある人も、積極的に受け入れていた。

 今、グループホームの2ユニットのうち、1ユニットを鈴木さんらで再開する構想を持つが、運営していくには、スタッフがさらに5人ほど必要だ。

 「富岡町のためにやらないといけないですけど、この状況をどうやっていい方向に向けたらいいのか、まだ見えないものがいっぱいあります」

 「『廃虚』って言って非難された議員さんがいましたけど、でも本当に誰もいないところですので、寂しいです」

 ■新たな家族の別れ

 シニアガーデンの事業は、鈴木さん夫婦と専務である娘の紙谷瑞恵さん(38)が中心になって行ってきた。洋子さんは今、事業を2つに分担しようと考えている。

 「富岡町で継続してやっていくのは、会長と私が責任を持ってやる。福島での事業所は専務である紙谷が責任を持ってやる。分担が必要になってきている。若い専務を向こうに連れて行くことは出来ませんし、専務には子ども、私たちの孫もいますし、責任をとるといったらおかしいですけど、富岡町でお世話になった私たちが老体むち打って、同じ世代の老老介護になってしまうかもしれませんけど、自分たちは戻ってその責任を全うしないといけないと思っています」

 

■■■鈴木洋子さんからのメッセージ「震災から6年が経ちました」■■■

 震災から間もなく6年が経ちます、半年ぶりで富岡町の事業所に行きました。事業所の中は震災当時のままで書棚は倒れ書類や食器など床一面に物が散乱していました。震災後2年目ぐらいのネズミのふんや尿の異様な鼻をつくにおいはなく、6年もたつとえさがなくネズミも住めなくなったのか、これも目に見えない放射能の影響かなどと考えました。

 グループホームの中に進むと物が散乱した中に職員手作りのカレンダー「平成23年3月11日、金曜日」、時計も14時48分を指したままで止まっていたのを見て、ここはあの時から時間が止まったまま誰の目に触れることなく過ぎてしまっていたのかと、いとおしさと空しさとが交錯し複雑な感情でした。

 事業所の向かいにあったすし屋さんは、店と住宅すべて壊され何もなくなっていました。後ろの床屋さんは赤い紙が貼られ立ち入りできないようにロープが張られていました。家屋を壊す順番待ちのようです。事業所の屋上から見る町の風景はすっかり変わっていました。もっとも切ないのは周囲を見渡しても人の姿がないことです。乾いた空気がピンと張りつめ生活のぬくもりが全く感じられないのです。人が住まず6年経過した町は乾き切り、玄関前や田畑に除染で出た放射能入りの黒い大きなごみ袋が山と積まれています。小学校の唱歌で歌われた「いまはやまなか、いまは浜…」の舞台になった、のどかな田舎町の風景は様変わりしました。

 富岡町は4月1日の国の規制解除に向け、帰町宣言しました。どれだけの住民が戻るのかはっきりしませんが、役場や銀行、スーパー、診療所等、帰町に向けて準備を進めているようです。しかし、6年という時間は特に子供の成長は早く、1年生に入学した子供は中学生となり難しい思春期を迎えています。若い人も新しい職場でやっと自分の居場所を見つけ落ち着いたところではないでしょうか。

 私も、避難先をグループホームの利用者と職員で転々とし、介護事業所、アパート、仮設住宅を経て2013年9月、新築した福島市内の事業所に落ち着くことが出来ました。慣れない環境の元、高齢者の体力は衰弱し病院への通院や入退院への対応に追われました。残念ながら家族と離れ離れの生活で家族代理の私たちで多くの利用者をみとりました。

 

 千年に一度の東日本大震災を体験し自分たちは選ばれた事業所だからその体験を後世に伝える責任がある。そう自分に言い聞かせ全てを前向きにとらえがんばる毎日です。

 グループホームは、利用者の命を守るため協力病院のある福島市内に6カ所目の避難先として移転し、生活は安定しました。

 「ここはどこだい、寒く無くていいどこだない」(ここはどこですか? 寒くなくいいところですね)

 認知症の高齢者の利用者様が外の雪景色を眺めての言葉です。私たちは、富岡町指定の地域密着型のグループホームです。震災直後には、行政関係者や周りの方から「地域密着型の事業所は、地元でないと継続は無理だよ。利用者を他県(の避難先施設)に預け楽になったほうがいい」と会社経営を心配しての言葉を頂きました。しかし、私たちは「グループホームの利用者は自分の家族、介護に悩んだら自分の家族だったらどうしてほしいか考えると答えは一つだよ」と、常に認知症介護に悩む職員を励ましてきました。体験したことのない震災で家族がバラバラになり安否の確認できない状況で利用者と離れ離れになることは考えられませんでした。自分で作った会社だから利用者と職員がいなくなったらその時辞めればいい、それまで頑張りたい。震災から6年が経ち、利用者様と職員は入れ替わりましたが、ホームには毎日元気な笑い声が響いています。

 

 2016年12月、地域交流室を新築し、認知症予防を目的に「オレンジカフェ シニアガーデン」を開所しました。毎月、福島市の地域住民の皆様が集う交流の場所を提供しています。

 生かされた命です。生きた証として原発事故の廃炉までの道のりを確認し後世に伝える「かたりべ」として世の中の動向を真摯(しんし)に受けとめたいです。

<アピタル:東日本大震災・被災地からのメッセージ>

http://www.asahi.com/apital/special/shinsai/(岩崎賢一)

岩崎賢一

岩崎賢一(いわさき・けんいち) 朝日新聞記者

1990年朝日新聞社入社。くらし編集部、政治部、社会部、生活部、医療グループ、科学医療部などで、医療を中心に様々なテーマを生活者の視点から取材。テレビ局ディレクター、アピタル編集、連載「患者を生きる」担当を経て、現在はオピニオン編集部。『プロメテウスの罠~病院、奮戦す』、『地域医療ビジョン/地域医療計画ガイドライン』(分担執筆)