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 改めて「猫」を読んでいると、この一節は前に読んだあの漱石作品と設定や意味付けがよく似ている、と思える箇所に出会う。十一章でも、漱石の参禅の時の公案の「父母未生以前」というキーワードが、迷亭の言葉「僕などは終始一貫父母未生(ふもみしょう)以前から只今に至るまで、かつて自説を変じた事のない男だ」にさりげなく顔を出す。独仙の言う「個人と個人の交際」が穏やかでも実は苦しく、「丁度(ちょうど)相撲が土俵の真中で四つに組んで動かないようなものだろう」という部分は、「思い出す事など」に類似の言及があり、更に形を変えて、「道草」で緊張に満ちた夫婦のあり方を「手を携えて談笑しながら」「円(まる)い輪の上をぐるぐる廻って」歩く、と描く一節につながる。

 それにしても「猫」の行き着く先は、重い人間認識に満ちている。「二十世紀の人間は大抵探偵のようになる」という「探偵」論で、「個人の自覚心の強過ぎるのが原因」と喝破するところなど、それを書き付ける漱石の表情が見えるようだ。「この勢で文明が進んで行った日にゃ僕は生きてるのはいやだ」というのが苦沙弥の退嬰(たいえい)的な考えだが、鏡に自分を写さなければ気が済まぬスチーヴンソン(「自殺クラブ」の著がある)のエピソードからは、「それから」の代助の姿が思い出される。独仙の「二六時中己れという意識を以(もっ)て充満している。それだから二六時中太平の時はない」という言葉は、その後「己れ」の運命を書き続けた漱石の、「猫」を書いていた時点での感情のほとばしりであろう。

 漱石が、かつて一読したことのあるイギリスの劇作家アーサー・ジョーンズの1904(明治37)年の新刊を2冊丸善から入手して読み記した、長文の書き込みがある。戯曲「噓(うそ)つき」に対する作品評には、「文明的虚偽的の俗物」「虚栄心や自惚心」「太平の世」といった「猫」の世界に親しい標語が目白押しだ。そうした思いを一方でノートにも書き記し、更にそれを作品に造形する。小さな思いがまず「猫」の中に書き込まれ、一度組織化された後、その後それぞれのテーマが長編としてよみがえる。「猫」は光輝ある出発の作なのである。(中島国彦・早稲田大名誉教授)

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