[PR]

 昨年4月の熊本地震後、多くの被災者が「熊本には大きな地震は来ないと思っていた」と語った。しかし歴史をひもとけば、度々大きな地震に襲われてきたことが分かる。過去の教訓を「我がこと」として受け止め、次の災害に備えるには。伝承のあり方を探った。

 有明海を望む山裾にみかんの段々畑が広がる熊本市西区河内町河内。約100メートル先に漁港を見渡す国道沿いの民家の庭に、しめ縄を巻いた高さ2メートルの巨石がある。約200年前に熊本県西部の海岸を襲った大津波の犠牲者を弔う慰霊碑だ。表面には「寛政4年」(1792年)の文字が刻まれている。

 この家に住む川越哲二さん(62)は、昨年4月16日未明の熊本地震の本震発生直後、高齢の両親と妻、2人の息子と共に車で高台へ逃げた。予想されていた津波の高さは「1メートル」。標高約5メートルの自宅には届かない高さだ。それでも、近所の人はみな山へ逃げた。「ここらではみんな地震が起きたら上へ上へ逃げろと教わっている」と話す。

 大津波は1792年春、地震や火山噴火が続いていた対岸の長崎・島原半島で山が崩壊し、大量の土砂が海に流れ込んで発生した。津波の高さは20メートルに及び、島原で1万人、熊本で5千人が犠牲になったとされる。川越さんが住む地区だけでも100人以上が亡くなり、「島原大変肥後迷惑」という言葉が今に残る。

 川越さん宅から北に1・5キロほどの河内川河口近くには、当時の藩士鹿子木量平(かのこぎりょうへい)が説いた教訓を刻んだ石碑も残る。家から荷物を持ち出そうとした人の多くが溺死(できし)したと伝え、「欲を捨ててすぐに逃げろ」と訴えている。

 川越さん宅の庭では今も、毎年4月第1週の日曜日に神主を呼び、地域の人々が巨石の前に集まって慰霊祭を開く。「災害を覚えておくため、犠牲になった人を悼むため」という。

■鹿子木量平の教訓碑に刻まれた…

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員に登録すると全ての記事が読み放題です。

初月無料につき月初のお申し込みがお得

980円で月300本まで読めるシンプルコースはこちら