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 ヤクルトの野村克則・1軍バッテリーコーチ(43)が、試合前の練習を終えた選手と会話をしながら、神宮球場のベンチに引き上げてきた。楽天、巨人、ヤクルトのコーチとして実績を積み、指導者の地位を築きつつある。

 父・克也(82)、母・沙知代(85)。野球界をはじめ、テレビにもたびたび登場する夫妻を知らない人は少ない。

 野村もごく当たり前に野球少年になった。子どもの頃、「プロ野球に入り、父を超える」と考えていた。堀越高校に進み、多くの球児と同じように甲子園を目指した。父が野球人として偉大だったことを深く意識したこともなかった。「どこにでもいる高校球児と親でした」

 高校は寮生活。「憂鬱(ゆううつ)になるほど練習は厳しかった。監督の指導にどう耐えるかしか考えていなかった」。主将になり、当時は日々の試合のプレッシャーの方が大きく、責任感もあった。両親が試合の応援に来てくれることは「純粋にうれしかった」。

 1991年夏、第73回の西東京大会準決勝。一塁側応援席にヤクルト監督の克也と沙知代がいた。世田谷学園との試合は6対6で延長に入る。

 同点で迎えた十回裏2死二塁、野村に打順が回ってきた。長打ならサヨナラ。打席に入ると、沙知代の声が一層大きくなるのが分かった。センターを越えるか、という飛球だったが、中堅手が好捕。十一回に2点を奪われた。反撃できずに試合終了。父の夢でもあった甲子園に届かず、期待に応えられかった自分にふがいなさを感じた。

 明治大に進み、2年の秋にリーグの首位打者、打点王になり、東京六大学のベストナインにも選ばれた。1995年11月、ドラフト3位で克也が監督を務めるヤクルトに指名される。捕手として入団。だが、「野球人・野村克則」の本当の苦しみはここから始まる。大きくのしかかる父の影。想像以上の重圧だった。

 プロ入り後、大学とのレベル差を痛感した。「何もできないまま野球人生が終わる」。焦りに追い打ちをかけたのは「監督と息子」という周囲の目だった。

 移籍先の阪神、楽天でも、監督と息子の関係は続く。ヒットを打っても、勝利に貢献しても、メディアに「チームに不協和音」と書かれた。「球団関係者」や「ある選手によると」という書き出しで、「監督が子どもをえこひいきで起用し、チームに不平不満がある」と報じられた。野球に集中しようにも「自分は色眼鏡で見られている」と人間不信に陥った。

 苦悩を振り払うために、結果を求めた。逆に「野村克也の息子だ」と開き直って、自信を取り戻そうとしたこともある。だが、そう思えば思うほど空回りした。

 そんな中で、ヤクルトでも阪神でも、よく食事に誘ってくれ、野球談義だけをしてくれる先輩たちがいた。

 そして――。プロ入り数年後、父が「気にしてもしょうがない」と漏らすようになった。父が、息子であっても、自分を一選手として見てくれていると思えた。「必ず個人として評価してくれる人がいる」。そう思えた時、徐々に「野村克也」の呪縛は薄れていった。野球を続けられた心の支えになった。

 今、選手を育てる側にいる。「いろんな角度から才能を見つけ、引き出そうと考える。そう思えたのは父の教えのおかげです」。周囲も「非常に温厚で、人柄がいい」という評価だ。

 現役生活11年間で引退、華々しい成績は残せなかった。だからこそ、期待されながら、結果を出せずに苦しむ高校球児の気持ちが分かる。自分も最後の夏、最後の打席で打てなかった。高校時代を振り返り、「野球が好きなんだという純粋な気持ちを大切にしてほしい。期待されることは悪いことではない。自分を信じて練習すること。きっと重圧に耐え、乗り越えられると思う」。(敬称略)