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 平安末から鎌倉初期にかけて腕を振るった仏師の運慶(1150ごろ~1223)は写実性を重んじたといわれる。運慶による仏像は31体残っているとされ、うち22体が一堂に会する「興福寺中金堂再建記念特別展 運慶」が9月26日、東京・上野の東京国立博物館で始まる。天才仏師が求めた「リアル」とは何だったのか。特別展を前に、主な出展作品から探りたい。

■目に注目 「玉眼」「彫眼」使い分け

 目は口ほどにものを言い……。運慶は「玉眼(ぎょくがん)」を用いることで、仏像に生き生きした空気を与えた。

 玉眼は、コンタクトレンズのような形をした水晶の板を仏像の顔の内側からはめ込み、瞳や血管を色づけする手法。目が輝きを得て、まさに生きているかのような印象を与えることができる。

 和歌山・金剛峯寺の国宝「八大童子立像(はちだいどうじりゅうぞう)」(1197年ごろ)は、静かだが強い決意を感じさせる制多伽(せいたか)童子、落ち着き払ったような矜羯羅(こんがら)童子など、多彩な表情を見せる。奈良・興福寺北円堂の国宝「無著(むじゃく)・世親菩薩(せしんぼさつ)立像」(1212年ごろ)は、5世紀に実在したインドの高僧。壮年の落ち着きを感じさせてくれる。

 一方で、運慶は玉眼を多用することは避けた。無著・世親を従える北円堂の本尊、国宝「弥勒(みろく)如来坐像(ざぞう)」(1212年)では目を彫り刻む「彫眼(ちょうがん)」とした。特別展「運慶」には出展されない。「如来は精神的進化の格が人間と違う。運慶はそれを表したのだろう」と、興福寺の金子啓明(かねこひろあき)・国宝館長は話す。運慶は見た目のリアルだけを表現したのではない。

■衣や髪の流れ 静かな仏にも動感

 運慶の最初の作という奈良・円成寺の国宝「大日如来坐像」(1176年)は、体に巻きつく布や耳にかかる髪の流れが美しい。この布も髪も、体や耳を丁寧に造形した上に別の材でつくったものをかぶせてある。像を模刻した彫刻家の藤曲隆哉(ふじまがりたかや)さんは「見えない体や耳も造ることで、初めて破綻(はたん)のない彫刻になると考えたのでは」とみる。

 神奈川・浄楽寺の国重要文化財「阿弥陀如来坐像」(1189年)も「流れ」が目を引く。組んだ両足を覆う衣のひだが、急流のようにうねる。「運慶仏には、足まで彫り刻んだような、深い衣文(えもん)のものもある。形式化した平安時代の仏像との決別を宣言するようだ」と、東京国立博物館の浅見龍介・企画課長は舌を巻く。運慶は静かな仏にも動感を与えたかったのだろうか。

■筋肉の表現 尻とふくらはぎ、力士のよう

 運慶とともに工房を支えたのは5人の子どもたち。うち三男の康弁(こうべん)は筋肉の表現にリアルを求めた。代表作が、筋骨隆々の力持ち、興福寺の国宝「龍燈鬼(りゅうとうき)立像」(1215年)だ。

 ウェートトレーニングに詳しい東京大学の石井直方教授は「相手を倒したり、ねじ伏せたりする能力にたけた力士の体を、仏師が見ながら造ったと思う」と話す。

 石井教授が驚くのは、龍燈鬼の尻とふくらはぎ。「尻は大臀(だいでん)筋の内側の中臀(ちゅうでん)筋、ふくらはぎは表面の腓腹(ひふく)筋の内側にあるヒラメ筋が発達している。生身の人間とか、持ち上げにくいものを持ち上げることでついた、すごい筋肉です」

 そんなところまで写し取った康弁は、父のリアルな表現を受け継いだ。英才教育が施されたのだろうか。(編集委員・小滝ちひろ

     ◇

 奈良・興福寺は710(和銅3)年、藤原不比等(ふじわらのふひと)が「厩坂(うまやさか)寺」を平城京に移したことに始まる。

 何度か戦災、火災に見舞われ、1180(治承4)年の平氏による南都焼き打ちでは全焼した。運慶は同寺を拠点とする奈良仏師・康慶(こうけい)を父に、復興に参画して様々な仏像を残した。

 興福寺はいま「天平の文化空間の再構成」を掲げ境内整備を進めている。その中核が1717(享保2)年に焼失した中金堂を300年ぶりに再建する事業。2018年10月7~11日に落慶法要を営む。