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ナガサキノート:この場所で

 旅情を誘う終着のターミナル駅。夏休みの長崎駅のホームには、家族連れの帰省客や観光客、大きなスーツケースを引いた外国人の旅行者など多くの人が行き交う。72年前、戦時下の日常でも、食料の買い出しや疎開先へ向かうために汽車を待つ人たちがいた。

 1905年に現在の場所まで鉄道が延伸されて新しくできた長崎駅の2代目駅舎は「美しい白壁のドイツ式建築」だったと、JR九州の100年記念誌に紹介されている。長崎港からは上海への連絡船が出ていた。

 坂本亀良(きよし)さん(88)は1944年に国鉄に就職し、駅構内にあった診療所で働いていた。あの瞬間、坂本さんは医薬品を取りに、構内にあった駅の防空壕(ごう)に行っていた。「パッと光が出て、防空壕を飛び出しました」。外に出てみると、構内や駅前の広場では多くの建物が爆風で倒壊していた。

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 長崎原爆戦災誌などによると、爆心地から南に1・9~2・7キロの長崎駅にある建物は、ほぼ全てが倒壊か半倒壊した。原爆投下から1時間たった正午過ぎには駅の本館などから火の手が上がり、夕方までにほとんどが全焼した。坂本さんは熱せられた線路の枕木が自然に発火するのを見た。「水をかけても消えんのですよ」。終戦直後の国鉄による調査では、駅での鉄道職員の死者は爆死21人、被爆による後発死は43人とされている。

 昼過ぎ、負傷者を収容するための救援列車が長崎を目指した。燃えた枕木などに進路を阻まれ、浦上駅の手前までしか進めなかったが、9日のうちに4本が運行され、3500人を大村や諫早などに運んだ。線路が再び長崎駅までつながったのは12日午後11時。昼夜の作業で枕木やレールを取り換え復旧した。

 戦後も坂本さんは1984年に退職するまで国鉄で働いた。終戦を迎えると、博多港や佐世保港に上陸した復員兵や、長崎港から祖国に戻る連合国の捕虜が汽車で長崎へ運ばれてきた。焼け野原のバラックを家に建て替えるための材木を山積みした貨車を毎日のように見た。鉄路は平和と復興を運んだ。

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