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 中国の民主化のために闘い続けた劉暁波(リウシアオポー)さんが亡くなってから、まもなく1カ月になる。劉さんの死が語るものは何か。中国社会に残したものは――。米ニュースクール大学客員研究員の徐友漁(シュイユーユイ)さんに、ニューヨークの自宅で話をきいた。

劉さんを変えた「6・4」

 ――徐友漁さんにとって、劉暁波さんはどんな方でしたか。

 「自らを省み、自己批判できる人だと思う。自分を変えていける深い思索と強い力がある。1989年の6・4(天安門)事件をはさんで、彼は驚くほど変わった」

 「私が署名運動など民主的な活動を通じて、劉さんと直接、交流を深めたのは2000年前後です。彼は文芸批評家としてとても有名で、事件以前から作品や共通の知人を通じて間接的には知っていました」

 「事件までは、他人を弁舌鋭く批判し、自分の意見は絶対に正しいと自己陶酔するかのように語る人でした。他人の話に耳を貸さなかった。大衆や社会をどこか軽くみているところがあった。ところが事件をはさんで大きく変わりました」

 ――劉さんは89年6月4日未明、天安門広場に突入寸前だった軍の幹部と交渉し、同時に学生に広場を離れるように説得し、犠牲を最小限に食い止めた「四君子」とよばれる一人でした。

 「中国社会科学院に勤務していた私も当時、広場にいました。学生らによる政府への抗議に賛同して加わっていたわけですが、軍隊が鎮圧を準備していることが伝わり、学生たちに退去を促すために広場に通うようになった。だが、若者はナイーブで人民解放軍は『人民の軍隊だから我々には銃を向けない』と言って動かない。そのような状況のもと、劉さんらは軍と学生の間に入って交渉し、学生の多くを退去させ、大虐殺、大流血になる事態を回避した。人民英雄記念碑のそばで語りかける劉さんの姿を覚えています」

 ――劉さんは当時、米国の大学の客員研究員でした。事件を知り、帰国したんですね。

 「たいへん危険なことでした。学生の支援に帰国すれば、とたんに政府に捕まるだろうと。多くはどうやって米国にとどまるかを考えていた時です。一緒に戻ろうと相談していた知人たちもいたが、北京への片道切符を買って飛行機に乗ったら、彼一人になっていたそうです」

「08憲章」を起草して

 ――事件後、公職を失い、「反革命罪」で91年まで投獄されます。

 「彼は獄中で思索を深めたのだ…

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