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(13日、高校野球 二松学舎大付14―2明桜)

 明桜の記録員を務めた植木大輔(3年)は2―14の初戦敗退にも、泣かなかった。「いろいろあった高校野球ですけど、みんなで甲子園で終われた。やりきった。そう思えたから、涙も出ませんでした」

 新潟県阿賀野市の出身。中学時代は硬式クラブチームの新潟ヤングの内野手でキャプテンだった。チームの先輩で前橋育英に進んだ人がいて、県外の進学に憧れた。そんなとき、チームのコーチでもあった父が「秋田の明桜はどうだ」と勧めてくれた。中学3年の夏、秋田に見学に行ってみると、新潟に比べて涼しかった。気に入った。関西から来る選手も多いと聞いた。とにかく甲子園に行きたくて、明桜進学を決めた。

 入ってみると、関西出身の仲間のレベルが高くて驚かされた。頑張ったけど、ベンチ入りは遠い。2年の秋の大会が終わったとき、野球部長から「マネジャーにならないか」と言われた。

 選手では力になれないのは、誰よりも自分が分かっていた。でも、すぐに気持ちの整理なんてつかなかった。1週間ぐらい悩みに悩んだ。新潟の父に電話すると、「立場が変わっても、チームの力になればいいんだよ」と言ってくれた。あのひとことで吹っ切れた。

 今年の4月まで半年間は監督不在の状態だったから、練習メニューを考えたり、ノックも打ったり。あの時期は大変だった。夏の秋田大会を勝ちきったとき、「野球はへたくそだけど、甲子園へ行く力になれた」と思えた。

 特待生でも何でもないから、遠く秋田まで来させてくれた両親には感謝してもしたりない。だから大学は自宅から通えるところに行く。もう自分で野球はしない。大学に通いながら、新潟ヤングの後輩たちに、自分が高校野球で学んだことを伝えてあげたいと思っている。将来はプロ野球の球団職員を目指すつもりだ。「給料で両親やじいちゃん、ばあちゃんに恩返しします。迷惑ばっかりかけてきたんですけど、いつか、僕がみんなの面倒を見られるぐらいになりたいです」

     ◇

 試合直後の取材スペースで、植木君と10分ほど話しました。最後に「新聞に載ったら送るからね」と言いました。そしたら彼は「もしかして1面をめくったところにある写真付きのヤツですか」と尋ねてきた。朝日新聞で言うところの「ひと」欄だ。「ごめんな、あれはこの大会で優勝した監督ぐらいじゃないと載らんわ」と言うと、「そうですよね、あれはヤバイっすよね」と植木君。「でも、いつかあそこに載るような人になってな」と伝えると、いい笑顔で「はい!」って返してくれました。植木君、がんばりや。同じ大輔として応援してます。(篠原大輔)