長崎の核廃絶・平和運動を理論的に主導した元長崎大学長の土山秀夫(つちやま・ひでお)さんが2日午前5時16分、多臓器不全のため長崎市内の病院で死去した。92歳だった。

 長崎市に原爆が投下された翌日の45年8月10日に市内に入り、長崎医科大(現長崎大医学部)の救護班に加わった。10日間にわたる救護活動の傍ら、爆心地から約250メートルに住んでいた兄の遺体を捜し出し、その場で火葬した。

 戦後、長崎大医学部長などを経て、88~92年に同大学長。退任後は被爆者、医者として、核兵器廃絶運動のリーダー的存在になった。「感性と理性の両方に訴えかける必要がある」と、核兵器禁止条約や北東アジアの非核地帯の創設などを提唱し続けた。

 長崎市平和宣言文起草委員や「世界平和アピール七人委員会」委員、「核兵器廃絶地球市民集会ナガサキ」実行委員長などを歴任した。長崎大核兵器廃絶研究センター(RECNA)の創設にも尽力した。

 15年に公開された映画「母と暮(くら)せば」(山田洋次監督)では、主人公のモデルとなった。

 長崎の被爆者では、大やけどを負った「赤い背中」の写真とともに国内外で証言を重ねた谷口稜曄(すみてる)さんが、8月30日に88歳で亡くなったばかり。